【九月号】巻頭言 虚飾性無完全飯罪CHAPTER05【キ刊TechnoBreakマガジン】

CHAPTER05: 誰も彼もが復活しない

本町一丁目交差点のコンビニエンスストアから出てきた男の表情は、なんとも言えない悲しみをたたえていた。往来へ出るなり、パック入りのめかぶを開封し、ぐいと飲み込む。喘息用の吸入器でも使用するかのような所作だった。彼の表情は、少々明るさを取り戻したか、ふと赤みを帯びたような生気が見られた。

スクランブル交差点の斜向かいには、何やらキナ臭い事務所が新規に営業開始しているらしい。地元界隈の治安というか地政学というか、そういった類につい目が向いてしまうのは、この男のそう悪くない癖である、習志野軍閥行田駐屯地に在籍していた頃からの。そんな彼も、現在は自称ライター稼業で糊口を凌いでいる、というか美味い飯にありつけているというか。その日のいで立ちは、黒いポリエステル製の涼しげな半袖シャツに、暗い藍色のジーンズ。

本町通りを少し入ってから向こうへ渡り、そのまま路地へ。すぐそこのワインバル、BAN-ZAIを待ち合わせの店に指定していた。七人がけのカウンターとテーブル席が二、三ある程度の小さな店だが、地元で好んでいる。と言っても、彼自身訪れるのは四、五年ぶりくらいになるのだけれども。入店すると、小柄ながら浅黒い顔色をした精悍な印象の店長が、明るい笑顔をさせながら迎え入れた。テーブル席はどちらも先客が陣取っており、その日の店内は賑やかな印象だ。好きなお店の客入りが良いのは嬉しい、これから先もずっとこの場にあって欲しいと、彼は心底思っている。

カウンターに腰掛けると、早速店長が話しかけた。

「若松さん、お久しぶりです」

若松と呼ばれた男は照れ臭そうに挨拶を返した。しばらく地元を離れていたことや、今後は元の職場に復帰することになりそうだということなどを話した。

「じゃあ、井上さんとは、もう会っていませんか?」

ワインバルBAN-ZAIは、随分と若かった頃に、その頃の友人と見つけた開店したばかりのお店だった。ころっと太った井上の、冗談の絶えない愛嬌ある表情が思い出され、懐かしいと同時に少し寂しくも思った。

「だいぶ前に一度だけ、そちらの席に女性とお越しの時があったんですがね、それ以来は見ていませんね」

そんな話を聞かされて、旧友の幸せを祈る。その女性と結婚でもしたのだろうか。恋多き男だった。

テーブル客たちに給仕していたおかみさんが、注文を取りに来た。相変わらず美しく、気立てが良く、笑顔が素敵だ。この夫婦が切り盛りしているこのお店は、船橋が誇るある種の奇跡の一つと言って良い。二、三挨拶を交わし、リストから『幻覚』を意味する名のビールを選んだ。それと、レバーのテリーヌ。こういうお店は、どこにでもあるようなものではない。今夜はこれから、このお店の名物料理を親友と二人で堪能したい。

鶏もも肉のコンフィ、豚スペアリブの香草パン粉焼き、マグロ頬肉のステーキ。冬場になると、ブイヤベース風の鍋も提供される。いつものスタンダードメニューだけじゃなく、この日のおすすめとして、マグロとネギのオイル煮、牛すじとマッシュポテトのチーズ焼き、さらに自家製ローストビーフも仕込まれているというのは幸運だった。これから来る男は、若松にひけをとらない大食漢だ。もしかすると、全食制覇もあるかもしれない。

と思った矢先の出来事である。けたたましい音がばりばりとガラスの雪崩を店内に降らせたのだ。往来から店内を見渡せる大窓のうち一枚が、捩じ切られるような不自然な力で粉砕された。なんと、足を掴まれた人間の頭部が、ガラス窓を打ち破る道具にされたらしい。頭から血を流した男が、うめき声を発しながら俯せになっている。

「よ、一食一飯の」足を掴んだまま漆黒の軍装の男が会釈した。

「え、知ってるの?」実は新しい連載の構想が、もう二つも見込まれているのだが。

「当たり前だろ、毎週読んでたよ。こないだ、ラーメン・ドラゴンボウルも区切りが付いてたな」彼は店内をさっと見やり「マスター、こいつは後で軍閥が弁償するよ。それと、」目敏く女性店員へ目配せしながら「赤ワインのボトルとスパゲッティ、それとピザ、どれも一番安いやつ」人の倍食うから、いつもこう注文してるんだ、と彼は僕の目を見て笑った。漆黒の軍装に身を包んだ彼の暗く澄んだ瞳が、軍帽の奥からちらりと覗いて悪戯っぽく輝いた。

「伏せてな」

テーブル席を陣取っていた客たちが一斉に拳銃を構え、一瞥で敵対関係と判明した突然の乱入客に向けて発砲を開始した。男はそのことが嬉しくて嬉しくてたまらないかのようだった。

「吾妹子が植ゑし梅の木見るごとに心むせつつ涙し流る」

JG-02起動の祝詞は、男の両手に装着された黒革の手袋を励起した。両腕でささ、と空に字でも書くように交差する挙動だけで、彼は七人の凶漢が撃ち尽くした弾丸をことごとく掌中に収めていたのだった。やはり此奴らも小松菜販売の仲間だったかと、その男、習志野軍閥行田駐屯地のエージェント、Wは合点した。こういった手合いを釣り上げるには、生き餌で釣り堀に乗り込むのが一番だな、とも。小松菜とは、船橋界隈で言うマリファナの隠語である。

弾切れに蒼然と立ち尽くしている売人たちがいる奥へずかずかと近付き、渾身の鉄拳を打ち込んだWは物足りなさを感じていた。腕を振り上げれば二、三人が壁に叩きつけられる。派手にやったが、手応えはなかった。改めて旧友との再会に祝杯をあげて、その日は陽気に酒盛りでもしようとその場を振り返る。

だが、カウンターにいたはずの伴は、胸を押さえて仰向けにひっくり返っている。yが撃たれてしまった。名前を呼ぶ、建前の苗字である若松ではなく、軍閥でのコードネームyを呼び続ける。呼び続けなければ、yは向こうへ行ってしまいそうだから。行くな、行くな、行かないでくれ。涙が溢れそうになりながら、Wは必死になって、為すすべもないままに呼び続ける。

「その優しさも」少しだけ目を開けたyが、切れ切れの言葉をつなげる。「弱さも、僕に見せてくれたこと」

その言葉は、彼が士官学校を去る時に伝えてくれた言葉だった。yの意識が戻ったことも嬉しくて、Wは傷口をかたく押さえた。また一緒にやろう、帰ってくるんだろう、団地へ。だから行くな。

yは力なく首を振った。他にたくさん伝えなければならないことがあるのだというのが、彼の燃えるような瞳を見れば分かる。だが、その意思とは裏腹に、残されていた最後の力はもうほんの僅かだった。

「先にシドで待ってる。士官学校のみんなに、よろしく」

吠えるようなWの慟哭が、熱い涙を絞り出す。聖杯を聖水が満たすように、yの穏やかな顔に注がれる。

団地で一番優しい男が帰ってきた。これがその顛末、顛末。