お酒にまつわる失敗談を寄せてくれと依頼を受け、酒客笑売を書いている。
それも一度は断ったのだが、原稿一本につき一席設けるとの口車に乗って引き受けてしまった。
何ということはない、編集長の卍君の月末の飲み歩きの横に付き添うというだけのことだった。
何とも迷惑千万な話である。
食べ歩記、飲み歩紀なら取材に出掛ければ収穫もあるだろうが、失敗談は過去の話なのだ。
といって、山手線沿線の名店から出禁を食らう羽目になるまで羽目を外して飲んで取材に替えれば済むというのは、もう若くないから率先してやりたいとはあまり思わない。
宜敷君の書く食べ歩記は、一食一飯から読んでいた。
よくもまあ、あれだけ食べられるなと思いながら、お酒に関してなら同じくらい飲めるから、もしかすると彼が僕の文章を読んだら同じように呆れているのかもしれない。
彼の文章はからりと乾いた笑い声がよく響くような感じがする。
一食一飯流に言えば、からりと揚げられた唐揚げが、からからいう風な笑い声か。
比較すると、お酒にまつわる感情はそう一面的に書くことはできない。
私は笑い上戸であり怒り上戸であり泣き上戸だからだ。
そこで、酒客笑売を書くにあたって心がけていることがある。
職業柄、コンプライアンスに関して考えることが多い(ライター業では食べていない)。
お客の立場なら、私がステージ上でどのように振る舞えば喜ぶか、演じた結果が的外れだったということが多々あった。
私のようなキ〇ガイが担当者ならば、笑いの絶えない業務になりそうなものなのだが。
同僚からはよく
「変な人だけど、悪い人じゃない」とか
「クセがありすぎて好き嫌いきっぱり分かれる豚骨ラーメン」とか。
私に直接言われるのではなく、他人にこうやって紹介されるのである。
これではまるで、役者さんが思う演技と、観客が期待する演技との相克に引き裂かれているかのようだ。
だからこう思う様にしている。
キ〇ガイを演じたい私と、キ〇ガイは要らないと期待する顧客との相克によって、コンプライアンスなどというワケのわからない観念自体が引き裂かれるべきだと。
私の意図が伝わらない、私が意図していない読者の方々に向けて分かりやすく言い直すならば。
(意図的に他者を傷付けるようなものでもない限り、)コンプライアンスなんぞ糞食らえなのだ。
酒客笑売はその一点だけで原稿を依頼されたと思っている。
ついでに、あなた方にも分かるような言葉で和訳をしておくならば、それは遵守といったところだ。
そして、私の流儀で訳すならば、それは殉死といったところだ。
そう思ってみれば、糞食らえと言いたくなる心情も察せられるのではあるまいか。
では、そんな私から、つい最近あった一食一飯的酒客笑売を、八月号休刊のお詫びに代えてお届けする(よう編集部から依頼されたので書く)。
先日アップロードされた餃子の話の冒頭で、宜敷君はガリの使い所が分からないと書いていた。
あれ、実は私も同感だ。
とりあえず(という口ぶりに反発するような料簡の狭い連中を無視して)生を注文すると、先方でもとりあえずガリをつけてくる。
あぁ、これは韓国料理屋で出されるナムルとかキムチとかカクテキみたいなもんかと思いながら、ガリガリやる。
で、ビールをグッと飲む。
何かちがう。
これなら韓国料理屋へ行けばよかったと半分後悔しながら、しかし肝心のお寿司を注文して気を取り直そうと試みる。
ちなみに、韓国料理屋では冷麺の使いどころが分からない。
何なら、お蕎麦屋さんで美味しいお蕎麦というものを食べたことがない。
私の感覚は、お酒に特化し過ぎているのかもしれない。
西船橋駅構内に立ち食い寿司店があり、仕事上がりに一杯引っ掛ける。
この頃、平日の夕方はハッピーアワーでビールが安くなるのでよく行く。
とりあえず(とは板前に言わず心でぼやきながら)生と、いつものセットを注文して待つ。
他所のお客の注文の狭間を縫って、おっかなびっくり注文せずに十貫出るので気が楽なのだ。
その割に、出てくる順番がデタラメで、決まっているのは仕舞いに穴子と玉子を出すことである(穴と玉で竿はない)。
これらを食べてから、お好みを少しばかり注文していくのが、板前にとって都合が良いのだろう。
しかし、書いていてむかむかしてきた。
というのも、そこの立ち食い寿司での注文の話がしたいからなのだが。
和装のいなせな姐さんが飛び込んでくるなり
「ただいま」と言った。
続けざまに、生とも。
小柄な彼女は提供されるまでになんやかやと無駄口をたたきながら待っている。
その様子を横目に一人で静かにしていた。
「今日、トロぶつある?」
ああ、トロぶつは美味いのに安上がりだから、この店のことをよく分かっているらしい。
姐さんは乗り換えの時間つぶしと冷やかしを兼ねてか、ビールと寿司二、三貫で出ていった。
会話の内容から分かったのだが、乗り換えの時間調整のためによく来ているらしい。
その姐さんと先日二度目の邂逅をした。
腹が立ったのはその時の状況だ。
店内のカウンター半分に偏って、お客がびっしり並ばされた夕刻である。
おいおい、まだ少し早い時間なのに参ったな。
セットを差し込んじまう方が迷惑そうな混雑具合だぞこれは。
生を注文する。
これは板前じゃない店員が用意して出す。
一口で半分くらい飲む、美味い。
夏場は寿司も天婦羅もビールが美味い。
誰だ、さっき韓国料理屋なんて言ったのは。
しかし、である。
私がビールを飲んでいる間にも、お客はめいめい注文する。
板前は
「へぃ」
とか暗い返事だ。
たまに
「順番で伺います」
などと抜かす。
傍から見ていて、こいつはどういう料簡か思う。
何だ、順番とは。
隣の客がこれじゃあ、こうしてビールを飲んでる私の順番はいつ来るのだ。
「注文するな」とでも言いたげではないか。
この店に限ったことでは無いが、こういう状況は廻っていない寿司店でよく見られる。
カウンターにいる全員の手元から寿司の有無を確認し、あまり立て続けになりすぎない程度に、かつ板前の手が空いているのを見計らって、刺すように注文しなければならない状況。
タランティーノ風に言い換えるならば、寿司屋のメキシカンスタンドオフである。
京成船橋駅前の回転寿司屋さんでは、板前がベテランなのと、常時複数名体勢の分業制であるため不都合を感じないのだが。
西船橋駅構内の場合は、お客がそんなに来ないだろうと高を括られている時間帯は板前が一人なのだ。
二人が立っていたとしても満席の場合は同じく不都合があるにはあるが、そんな夕刻に混雑が起きていた。
板前がピリピリしている以上に、カウンターにずらずら並ばされたお客の方が気を張っているのが笑える。
他のお客が私自身を見る鏡にならないように、自分自身の表情に気をつけつつ、彼らを横目で流し見る。
独り言が多いのと、莫迦丁寧過ぎて滑稽なのと、たまたまやって来た姐さんと、板前が休む暇を与えないよう不遜な注文をしようとしているこの私と他二人。
姐さん以外はみんな狂気に満ちているかのような目付きではないか。
今日は洋装の姐さんだけが、ただ一人板前に軽口を聞いている。
こういう時、気を遣わない奴はいいよ、周りを気にせず自分の好きなものを勝手に注文できるから。
私のような気遣いではなく、気違いはというと、やり切れなくて泣きそうになる。
あんまり泣きそうだからこう考えた。
日本の寿司屋のカウンターに客と板前との隔たりがあるおかげで、我々のように刃物を持たないキ〇ガイは刃傷沙汰に及ばないで済むのだと。
いらつきが嵩じて、適当なところで結局セットを刺した。
のだが、似たような逆の経験をその直後にした。
引退間際の体育教諭は、私の父ほどの年の差なのだが様々に便宜をはかってくれることがあり、年に一度は二人で日帰りの登山に出掛ける。
隔年で群馬県水上温泉に泊まり、翌日谷川岳を登る。
泊まりの夜は酒盛りである。
酒客笑売的破天荒はその場で演じることはないが、飲んでいる時はジジーコゾーの仲だ。
その日は落雷注意報が出ており、切符売り場で早めの下山を勧められた。
なるほど、ロープウェイは霧へ霧へと向かって進んでいく。
天神平スキー場から始まる登山道は五十メートル先も見えないような状況で、先へ行く二人連れはさながら死の世界へ迷い込みに行くかのような不吉さを感じさせた。
我々は雲の世界にいるのだ、などと楽観的な心持ちにはなれない。
晴れの日には見晴らしのいい、木々の緑と、空の青さに囲まれた山なのではあるが。
私の登山は、黙々と進むスタイルである。
右足を出したら、次は左足を出す。
その繰り返しで山頂へ行き着くという、当たり前のやり方だ。
ふうふう言いながら、汗をどんどん落とし、それでも極力早足で登っていく。
谷川岳はほとんどずっと登りで、稜線をずっと渡っていくような快感とは無縁のようだ。
それに加えて、岩場鎖場難所が重なる。
二年ぶりの登山で、この日は軍手を忘れたのが失敗だった。
登山客はまばらというよりは盛況で、行く先々で道の譲り合いが起きている。
寿司屋の状況はそこで再現されることとなった。
と言うのも、物言わぬ私の寡黙な両脚は人をぐんぐん追い抜くからなのだが。
適当な広さのある道では脇から通過したり、曲がり角の外周に差し掛かって休憩をとる方々の横を失礼したりを繰り返す。
そういったことを反復していて驚いたのだが、追い抜いたと思った途端に私の後ろからピタリ迫って歩く登山者が何名もいたのだ。
おいおい、
「順番で伺いますよ」
煽り登山やめてもらえませんかね。
そういった手合いに限って挨拶ができないのが苛立ちに拍車をかける。
以前、卍君が書いていたトリアーデにはこうあった。
対立を行き来せよ、と。
地元駅中の立ち食い寿司と、田舎の温泉宿そばにある登山道とが接続されるなんて、いったい誰が考えるだろうか。
それにしても、彼が書いている船橋ノワールの続編はまだだろうか。
森林限界に到達し、忌々しい霧から抜け出したらしい。
ここは雲より高い世界、天神平から一時間半ほどの距離である。
徒歩ではなく登山となると消耗が激しいが、ここからもうしばらく上へ。
山頂の少し手前に山小屋があり、そこの売店で缶ビールを買った。
思えば今までは、山に登って山頂で食事して戻ると言う、健全極まりない体験ばかりだったのだが。
乾杯。
沁みるような美味さが癖になりそうである。
隣のベンチでカップヌードルを啜っていたお客も、感激の言葉をもらしていた。
抜けて来た雲は群馬県側、新潟県側は快晴だ。
雲の壁は、県境となる稜線沿いに立っていた。