【一月号】ヨモツヘグリ #011 東十条 新潟屋【キ刊TechnoBreakマガジン】

こちらはにいがた、あちらはさいたま、なぁんだ?

有名ななぞなぞである。

東十条二丁目、北区保健所交差点を挟んで、狛犬の様に店を構えた串焼き店だ。

川口ノワールもとい北区ダークトライアングルと呼ばれる王子、十条、赤羽で、僕は十年弱活動していた。

その頃この界隈に居たoathというコードネームの凶手、綿摘恭一を監督下に置くための潜入だ。

oathとは、なんとも優しくない約束だと、今はつくづく思う。

もう数年ぶりになるか、悲喜交々のこの北区東十条へ、モツ野ニコ美女史とやって来た。

「東西線の東の端から、南北線の北の端まで来るのって、ちょっとした冒険よ」

彼女は、寒空を物ともしないような薄墨色のトレンチコートを堅く着こなして、颯爽と歩いていた。

ここの向こうにあるのが彩球屋、威勢の良い二代目がフレンチのコースのような、例えば霜降り肉のベリーレアだとか軍鶏肉のサルサソース添えだとかの串焼きを提供する。

説明を聞いているモツ野女史の瞳が輝いたが、そこの飲み物が濃い目のレモンサワーか生ホッピーか、シェリー酒だと言われ、彼女が行くような店ではないのだと悟ったらしい。

僕は彩球屋の大将たちのことは大好きだが、久しぶりに顔を出すなり、婚約者を同伴というのも少々気恥ずかしい。

潜入を終えて直ぐ、一度軍閥から身を退いてライターごっこに興じていたため、親からもらった顔を変えずに今まで過ごして来た。

それに、彩球屋の煮込みは、普段食べているのとは次元が違うのだ、あれは上等のシチューである。

何かもっと特別な事があったときに、誰か別の仲間と来ようと思えるのが僕にとっての彩球屋。

では、懐かしの新型屋の引き戸を開ける。

入って左手のテーブルは特等席であり、この日も埋まっていた。

そのテーブルを予約した事は一、二度しかない。

一人か二人でカウンターに座るお店なのだ、僕にとっては。

彩球屋と違って、このお店のカウンターでは人と人との間に居る無力な個人に還れる様な気がして落ち着く。

先客が、奥へ案内された。

後に続いてお店のお姉さまに顔を出し、指を二本立てる。

奥のテーブルが空いているからそこへと言ってもらえた。

非常な幸運だ、僕らの到着で店内はもう九割五分埋まってしまった。

浅漬けの突き出しに応じて瓶ビール、キリンを注文。

モツ野女史好みの果実酒が無いため、サワー。

煮込みを二つ。

「楽しそうね」

「緊張してないだけ」

「もう指環を渡せたから?」

と言って、モツ野ニコ美こと真鍋乃二子は、無論これも偽名だが、自分の胸にちくりとした痛みを感じた。

「慣れてる店だからさ」

気の利かないセリフに彼女は少し落胆した。

かつて監督者だった僕は、今では被監督者なのだと言う事をまだ知らない。

飲み物が来てから直ぐ、煮込みが届いた。

これで三百円、あれから値上げをしていない事に、矜持を感じる。

ちなみに、同じ煮込みでも彩球屋では和牛リブロースの煮込みが出るのでしっかりと値が張る。

乾杯して、箸をつける。

この一年の、数ある名店の煮込みが僕の脳裏に去来する。

「此処の煮込みって、好きじゃなかったんだ」

僕はぽつりとこぼした。

「じゃあ、何で連れてくるのよ」

彼女は苦笑して言った。

「美味しいって感じるんだ、今」

不思議なことに、その理由も分からないまま、箸をつけては杯を傾ける。

彼女がいる安堵では無い、もっと大きな何かに包まれている。

煮込みと言えば此処しかなかった自分の半生の重みを感じている、彩球屋は高級店だったから。

その重みから解放されたのは、彼女との一月々々の飲み歩きで、やっと僕にも新型屋の煮込みを味わえる舌を授けられたと言う理由による。

柚子仕立てのあっさりした煮込みには、シロ、ハチノス、ミノなどがたっぷり。

空腹で直ぐに平らげてしまった。

これから、一本百円均一の焼きとんを、どれもミソで注文する。

一巡目は、チレ、レバ、タン。

これに山椒を振るのが好きだ。

【十二月号】ヨモツヘグリ #010 中山競馬場 梅屋【キ刊TechnoBreakマガジン】

除夜の鐘を聞くまでは鬼が笑う。

そう思っている慎重派もあるだろう。

だから長寿を願って蕎麦を食うのかもしれない。

どうせなら海老川で獲れた海老天を載せたい。

食べられないものを食べるのがヨモツヘグリだが、叶わないから別のにする。

それに、年の切れ間に関心があると言うわけでなし。

僕は、心も身体も賭け事からは離れた距離にいる。

それでも、中山競馬場から近い距離に僕の身体があるため、年の瀬の有馬記念は知っていた。

世に馬が有る、そういう意味からではなく、出走馬をファン投票で決めるという発案者でもある功労者の苗字を冠したのだと言うから意外だ。

日清日露戦争において軍馬研究の必要性を認めた国の動きが、1900年代初頭にこの競馬場を建設させたのだった。

とはいえ、現在の中山競馬場の前身として、松戸に競馬場が存在していた。

まぁ、僕は詳しくないから話を先に進める。

今回、その詳しくなさが、諸々段取りの悪さに繋がったのだが。

寒空の下、土曜一時過ぎの西船橋駅にモツ野ニコ美女史をお呼び立てした。

明日は有馬記念だ。

だから、前日ならば入場できるだろうという見込みである。

見込みは外れたのだが、外れた先が良い所に落着した。

北口のタクシー乗り場には先客が五組ほど居り、しばらく待った。

やっと乗車でき、行き先を告げる。

すぐに一つ前のタクシーに追いついた。

「同じ場所に向かってるのかしら」

果たしてその通りだった。

なんとこの日は、農林水産省賞典中山大障害というGⅠが開催されるのだと後になって知った。

しばらくして、前方に巨大な病院の様な建築物が現れた。

中山競馬場、あんなだったとは。

僕たちは、“いずれ起きる”と目されている、とある大きな騒動になるであろう現場を事前に視察しておく必要があってやって来た。

運転手は中央門の手前で降ろしたが、もうすでに簡易ベンチを持ち込んで明日の順番待ちをしている競馬ファン達が散見された。

予約入場券を持っていない僕たちは、すぐに南門へ向かわなければならないと知った。

下調べが無さすぎたが、馬券を買いに来ていたならもっと順調だったのだろう。

向こうに颯爽と直立している、真っ赤な軍装の美丈夫と、モツ野女子が目を合わせた。

ような気がした。

黙礼とも目礼ともつかぬ閃光が、ほんの一瞬交差する。

目立つ赤い軍装は、墨東の証だ。

何だか、クリスマスシーズンにお誂え向きの格好だな。

あ、近くを通った女児に手を振り返している。

意外と人情を解しているかの様な“彼”の挙動に、ちょっとした好感を得つつ、四百円を支払って入場した。

僕は、いつものサラリーマン然としたスーツ、土曜日なのに浮いている。

まぁ、この後にちょっとドレスコードに気遣うお店へ行くから止むを得ない。

競馬が貴族の遊びである国では、ドレスコードがあるそうだが、日本のこう言う場所ではコップ酒かなんか片手が似合う装いが結構だろう。

モツ野女史は薄桃色のコートが目立ち過ぎず、地味過ぎず、その主張していない雰囲気が今日の目的によく合っている。

行き交う人々、皆が競馬新聞を熱心に見ている。

僕は、青くて暗くて、自分が何処に立っているのか見失ってしまいそうな大空が怖くて、モツ野女史を手近な戸口から屋内へと案内した。

そうそうお目にかかれない抜ける様な開放感の外を体験した直後だと、施設内はもっと混雑している。

俯き加減の予想者たちの間を縫って、今回のお目当てを探す。

中山競馬場の煮込みは、梅家が美味えやと言うのが合言葉らしい。

それだけは調べて来た。

グルメストリートと言うのがあって、其処は直ぐに見つかった。

施設一階の片面にずらっとお店が並んでいるようだ。

昼時が外れるような時間帯を狙って来たから、たまたま並ばずに注文することができた。

煮込みと中生ビールを二つずつ。

「私、小が良いわ」

「余ったら下さい」

彼女もその方が得だと直ぐに察知した。

ここには、彼女が普段飲む様な桃のサワーが無いので押し通せて良かった。

彼女がビールを、僕が煮込みを両手に持って、外へ出る。

馬場に面した観客席には空席が目立つが、どの席にも、競馬新聞を伸ばしたのやらペットボトルやらが置かれて、誰も座るべからずの威圧を感じる。

こう言うのをそのままにしておくのが、日本人の良い所だと信じたいが、良い所の日本人はこんな残念な席の確保なんかしないのではあるまいか。

彼女に段取りの悪さを詫びると、笑顔で其処ら辺で良いと言ってくれたので、とりあえず足元に手元の物を置いて一息つくことにした。

「ビールのカップ持ってるから、先に煮込みを食べちゃって」

僕の分は両方足元に置いたままで、モツ野女史の隣に控える。

「うんうん、美味しいわ」

僕は、彼女にビールも勧める。

「これ僕も飲んで良い?」

飲み切れないだろうから早速、二口目を頂戴する。

ぐいぐいと、午前中のトレーニングで流した汗を取り返す。

大きなため息が気持ち良い。

間髪入れずに、彼女が一と箸のモツをくれた。

王道の味がする。

予想の的中具合で味が変わってしまうであろう。

そうこうしていると、周りにどんどん人だかりが出来てきた。

十四時五分のノエル賞、何番かの出走馬が検査を無事通過したとのアナウンスが入る。

隣に来た学生二人の会話、いついつのレース展開がどうだのとよく聞こえた。

耳に馴染んだファンファーレ、ああ競馬場か、気持ちが現実から遊離していく。

その頃には、手に手に容器を持って、煮込みを食べていた。

僕なんかは気もそぞろにぱくついていた。

ちょっと僕でも二杯弱のビールはお腹にたまるな。

ワアっという歓声が過ぎ去って、お客の集中が馬場から離れたくらいのタイミングで僕も飲み終えた。

ちょっと物足りないから、さっきのグルメストリートへ戻って、ラーメンでも食べさせて欲しいと提案した。

お店の並びを紹介する表示を確認する。

「やっぱり梅家さんは煮込みの写真で推してるんだね」

「ねぇ、このお店だけ背景色が黒よ」

洒落た差別化に気付いた彼女に敬意を表しつつ、果たして僕は、唐揚げにビールを試してみたくて飛びついた。

それと、聞いたことのある屋号のラーメン、中山スペシャルというメニューは全部載せだ。

大盛りにしたかったがそんな食券は無いらしく、さりとてその後のことを考えると二杯食べようとは思えず。

食後、丁度パドックが始まるらしく人が動いたのでそちらへ。

一通り見終えてから船橋法典まで歩いて行き、新木場経由で銀座一丁目へ。

僕はこの後、ティファニーだか何処だかで指輪を買って、彼女をフレンチに誘うつもりだ。

有馬記念の前日は、見上げれば倒れてしまいそうな青空だった。

【十二月号】もう付属の餃子のタレをつかわない(かもしれない) #008 浦安 秦興【キ刊TechnoBreakマガジン】

自分が死んだ感覚を鮮明に覚えている。

僕は、酔っていた訳ではないから。

殴られるのには仕事柄慣れていたが、不意の衝撃だった。

胸元を、どんと殴られた感覚。

深海に、どぼんと突き落とされた感覚。

気が動転して視点も定まらず、見慣れない天井をそれと認識できないまま。

苦しい、苦しい、だがすぐにその苦しみも麻痺していく。

最期に見るような彼の表情は、鏡に映した僕自身の表情だったのかもしれない。

Wの青ざめた顔が、あと数秒だけ僕をここに留めてくれた。

それが信じられない。

ハインツのケチャップでしたとか、まだ開栓して間もない赤ワインでしたなんて。

僕は死んだはずだ。

なぜなら声を聞いたから。

「記事は読んだ」と。

「生い立ちは総て見返した」と。

「私は全てを読むものだ」と。

「もっと食え」「まだ書け」「人の倍では足りぬ」「寿司で冷えた体を温めるラーメンを食う前に、焼き肉屋へ這入って最後は牛丼屋に行け」「合間に吐け」「口にできない物を口にすることを、ヨモツヘグリと称すること罷りならぬ」「伊邪那岐がこの世とあの世とを行き来した程度では満たされぬ」「お前は行ったり来たりを繰り返すのだ」「それは成人でも童でもない埒外の存在だ」「満腹と空腹とを止め処なく行き来していろ」「二つの矛盾を内包すること罷りならぬ」「ついでに膣内射精障害にしてやる」「私は夏見ニコル」「お前の背後で全宇宙を睥睨する者だ」「目覚めろ」「立て」「食え」「食って吐け」「書け」「駆けろ」「賭けろ」「お前は敷居を踏んでいる」「いや、お前は内と外を行ったり来たりし続ける」「禁忌を犯せ」と。

改札の前に彼女が、モツ野ニコ美女史が待っていた

青いニットが良く似合っている。

「急に、何というかその、不安になってしまって。こういう仕事をしていると、いつ急に、会えなくなるか分からないから」店へ向かって歩き出しながら言った。

「貴方が消息不明になっても私の所には詳細が来るはずだから、安心して」彼女は快活に笑って言った。「それに私たちは探す側であって、決して探される事はないわよ。人員が割かれるような事無いもの、代わりは多いんだし」

僕はそれでも切り出した。

「つながりが欲しくて、偶像崇拝的で嫌だと思わなければ、同じ指輪をはめていたい。今度、それを見にいくのはどうかな、来月にでも」

「お酒の力を借りずによく言えたわね。」彼女は大笑いしたが、照れかくしのようでもあった。「給料の三ヶ月分は覚悟できてるのかしら?」

「もちろん」

ロマンティックな事なぞ何も無いが、そのまま中華料理店へ這入った。

急に呼び出したのだが、彼女は応じてくれた。

のみならず、僕からの申し出も許諾してくれたようだ。

楽観主義者の僕が、こんなに不安になった事はおかしい。

その日は彼女の地元である浦安に来た、というか押し掛けた。

事前に調べて良さそうな和食店は予約満席だったため、こちら秦香さんを予約した。

モツ野女史も訪れた事はないそうだが、駅から近かったので案内してもらった。

駅の真横にくっついている施設の表から裏へと抜け、向こう側へ出る。

ほんの数メートルとはいえ、建物も道になる、街の中にも道があるというのが可笑しかった。

外観も、内装も、街中華という感じは全くなく、中華料理店だ。

案内されたのは六人掛けも可能そうなテーブル席で、前評判通り女将さんの愛想が非常に良い。

席に着くなり瓶ビールと餃子を注文した。

モツ野女史には、その間にドリンクを選んでもらう。

彼女は即決で杏酒のロックと言った。

「ソーダ割りじゃなくて?」

「ビール少し頂くわ」

その注文に重ねて、彼女はエビマヨネーズを、僕は蒸し鶏の葱塩和えをそれぞれ選んだ。

さっきあんな事を言ったのに、グラスに注いだビールでの乾杯は何事もなかった様に行われた。

会ってから、まだ半年と少しくらいしか経っていなのだが、お互い多くは語らない。

ただ、仕事の後の仕事と称した、こういう酒盛りが好きな二人だ。

優しい約束の宜敷ことyがしみじみ飲んでいると、しばらくして餃子がやって来た。

皿の余白が目立つ、焼き目はあるが乾いたような見た目のが、五つころんと不揃いに転がっている。

醤油を垂らそうと容器を傾けると、口元についていた雫が一滴落下した。

こんなもんで良いかと、小皿にラー油を垂らす。

こちらのラー油は、小さなお碗で小さじと共に提供される。

その上から酢を流し入れると、先に入っていたラー油が小皿一杯に広がった。

タレにつけて齧り付けば、何とも平凡な味である。

ふむ、どうしたものかと残り半分を口に放り込む。

若干、野菜が香りはするものの、平凡な印象は拭いきれない。

僕は苦笑して、猫舌の彼女に火傷しないよう忠告した。

「もう付属の餃子のタレをつかわない、か」

「ねえ、小籠包も注文しましょうよ」僕の落胆を見かねたかの様に彼女は言った。

「食べる時には、くれぐれもご注意を」

「火中の栗を拾って食べるのが、貴方が言うヨモツヘグリなんじゃなかったかしら」

言われて僕は、メニューにあった豚モツ、豚ガツとハチノス辛味鍋を注文したくなった。

今夜はいつもと外してゲストと共に餃子のつもりが、それに便乗してモツ煮まで頂こうと言う寸法だ。

小籠包と一緒に追加注文、瓶ビールも。

到着したエビマヨネーズを早速頬張る。

もったりと濃厚な食感に、弾ける様なエビが口の中を幸せにする。

温度も熱過ぎずで、いくらでも放り込めそうだった。

選んだモツ野女史も美味しいと言って食べた。

彼女のグラスビールは空いていて、杏酒のロックに口をつけたところである。

蒸し鶏はたっぷりのもやしがくたくたになったのに載っていて、一緒にモリモリと食べられる。

僕は塩分が強いのをあまり好まないのだが、塩梅の良い味つけだったので箸が進んだ。

平らげる頃に豚モツ、豚ガツとハチノス辛味鍋が届く。

結構な大きさのお碗に入れられている。

もやしやキャベツや刻まれた香辛料などに覆われて、中身がよく見えないが、モツの類もふんだんに入れられているようだ。

よく吹いてかき込むと、まだ熱く、そして辛い。

内蔵は煮込みではなく調理されたばかりのようで臭い、しまった。

辛くて臭くて地獄の池みたいなひと碗だ、黙々と食ってしまおう。

ニコ美女史も取り分けて食べているが、熱いとか辛いとか言う程度である。

変な汗が出て来た。

毒を食らわば皿までで、麻婆豆腐も注文する。

「この石鍋麻婆豆腐を、普通のお碗に入れて頂けませんか?」

「ウチはそれできないの、よく焼いて出すから」

「わかりました、それで下さい」

上手く行かない。

向かいのモツ野女史が赤面しているのは、辛味鍋の所為か僕の失言の所為か。

きっと彼女よりも僕の顔の方が赤いはずだ。

指輪の件なんか頭から飛んでしまっていそうである。

鍋を平らげ、小籠包を仲良く二つずつ食べ、麻婆豆腐に舌鼓を打ち、最後に炒飯と汁物代わりのパクチー水餃子で〆てお会計。




モツ野ニコ美は、目の前の男エージェントyが、トイレから戻った後で炒飯を猛烈に食べる様子をしかと見届けていた。

彼の目は席を立つ前に比べ、邪悪な赤さに染まっていたのだが、それは決して料理の辛さから来るものではない。

彼が箸を持つ手の甲には、自分で自分を食ったかの様な歯型がはっきりと認められた。

そして、いつか優しい約束と自らを呼称したその男とは、もう二度と会えないのだという事を直観した。

『哀れな男。貴方を誰にも渡すもんですか。そのために私たちWAR GEARは居るのよ』

【十一月号】ヨモツヘグリ #009 人形町 ラ・ブーシュリー・グートン【キ刊TechnoBreakマガジン】

約束の地、シド。

そんな場所なんてどうでも良い。

彷徨っているうちに、見失ってしまう。

なんにために其処へ向かっていたのか。

其処にはいったい誰がいるんだろう。

月末に区切りとなる仕事をやっと終え、僕は少しホッとすると同時に、未だに抜け切らない身構えるような感覚に身体を痺れさせていた。

一喜一憂も浮き沈みもあった、肉体的にも精神的にもだ。

ふと思い返してみると、この気の遠くなるような多忙感は、八月末に飛び込んだ急な任務を二ヶ月もの間引きずったと言う訳ではなく、どうやら七月上旬から四ヶ月もの間続いていた事であるらしい。

こう言った事に頓着しない性質が幸いして、この難局をどうにか凌ぐ事は出来たけれども、冷静に考えてみて、無意識に倍の期間の苦痛に苛まれていたのだと言う事を思い知ると気が遠くなりそうである。

そのタイミングを見計らうかのように、謎の美女、モツ野ニコ美女史から仕事抜きの場に呼び出された。

場所は日本橋人形町、彼女のお膝元である。

いつもだったら、僕の方で都内の名店を見繕い、彼女の事を引っ張り出すのだが、あんまり僕が連れ回しすぎて疲れたのか、はたまた彼女はそれだけ懐がヒロくなったのか、茅場町から乗り換えてノコノコやって来たのである。

律儀に時間の三十分前に到着したのには理由がある。

不慣れな土地に来る前に、セルフブリーフィングで周辺をよく調べておくのは当たり前だが、一寸気になる場所があったのだ。

小伝馬町の刑場跡である。

僕は、感情赴くままに其処を訪れた。

日比谷線で一駅先にあるが、歩いて街の息遣いが知りたかった。

案の定、人形町にはつい暖簾をくぐってみたくなるようなお店が豊富だ。

しかも、大通りでこの様子なのだから、路地裏なんかは小躍りしたくなるほどだろう。

モツ野女史がどんなお店を選んでくれるか楽しみになる。

そうこうしている間に、堀留町交差点だ。

驚いたのは、お店が見当たらなくなり何となく寂しく感じられたその位置が、人形町と小伝馬町との中間地点だったという事である。

なるほど、日本橋のような場所であっても、町と町とを道がつないでいるのだ。

僕は手応えを感じると共に、約束の時間に遅れぬよう足を早めた。

小伝馬町駅前交差点の一角には、マニア垂涎と言った風な梅干専門店があった。

恥ずかしながら、回る回らないに限らずお寿司屋さんでガリの使い所を分かっていない僕にとって、梅干しもまた同様だから通過してしまう。

目指すのは其処の裏手にある。

朝と昼だけ営業の田蕎麦さんを脇目に見ながら左へ折れると、寺院の外壁に色とりどりの幟が幾つも立っている。

小伝馬町は牢屋敷に処刑場、彼らの残念を弔うために勧進されたそうだ。

大安楽寺、身延別院それぞれが供養を果たしているらしい。

生い立ちや成した事業など詳しくないが、吉田松陰も此処を最期の地とした。

両院の真向かいにちょっとした公園がある。

晩秋の夜闇をわずかなライトが照らしていた。

奥からたくさんの子供の声がする。

目を凝らすと、母親たちは少し離れて座っている。

目を凝らさなくて良い位置には、浮浪者めいたのがちらほら居た。

僕は吸い寄せられるように奥へ向かい、子供たちから少しばかり離れた、誰も使っていない木造りの机に、買ってきた缶ビールを置いて腰掛けた。

僕は青海波をあしらった他所行きのタイを締めて着飾ってはいるが、浮浪者以上の不審者だ。

歩き飲みしているわけではないからジョッキ生にした。

缶詰みたいな開け口を取り去ってから、一緒に買ったサンドイッチに手をつける暇も無く泡が溢れるので、まず一口。

慌ただしい乾杯になるのが難だな。

それは、誰かと一緒であろうと、たった一人であろうと同じなのだ。

その事実を面白いと思えるかどうかだけが違いだ。

ランニングを済ませてから出てきたので、喉の具合もお腹の具合も心地良い。

十一月四日、良い死の日か、刑死者に手を合わせた。

吉田松陰は享年三十、九つで御前講義を成したという、人の倍の期間を生きていたかのような俊英らしい。

僕は死を想っていた。

ケチャップがこぼれるように人は死ぬのだろうか。

そうではあるまい、それは悪い冗談だ。

人には死ぬべき理由があるのだ。

流れ弾に当たって犬のように死んではならない。

さりとて、神の悪戯で無益に生きてもならないのだ、人は。

だが、生きる目的を見失うくらい、目先の利益や仕事を犬のように追いかけていたくはない、そう思いたかった。

一人でいるからこう思うのだろうか。

家庭を持てば、生き方が変わるだろうか。

目的が見出せるだろうか、決して表沙汰にならない生業の僕たちにも。

生業だけではない、呪われた身体のこの僕が祝福されるというのだろうか。

優しい約束の宜敷、そんな暢気な事を嘯いていた頃が懐かしい。

呷った缶ビールの重みが、残り一口だと示している。

端末の振動が僕を現実に引き戻す。

女史からの着信に、小伝馬町にいると応じると、なんと先ほど通過した堀留町交差点がお互いの中間地点になるからそこで合流という事になった。

水天宮通りを引き返し、その交差点角のコンビニ前で待つ。

先の飲酒でお腹はわくわくしていた。

水先案内人のモツ野女史が現れて誘なう。

挨拶もそこそこに、僕は彼女に惹かれて歩き出した。

向きは、通りを直角に折れて北東へしばらく進む。

「ここよ」

店名も読めず呆然とする僕を尻目に、彼女は戸を引いて中へ這入って行った。

案内されたのは四人掛けの円卓。

店内を見渡すと、もう一つある円卓にはワインが何本も並べてあり使用されない様子。

テーブル席が三つ、カウンター僅か。

奥ではシェフが調理している。

「おまかせコースで宜しかったでしょうか」

愛想のよさそうな男性店員にモツ野女史が頷く。

彼女は僕をフレンチに連れてきたのだった。

早速、飲み物を訊かれる。

僕は白ワインを頼んだが、それに合わせて彼女も白ワインを頼んだ。

「ペアリングをご希望でいらっしゃいますか」

ペアリングとは指輪のことでは無いとかなんとか、下らない事を思った。

そう言われれば僕は白も赤も飲みたいのだが、モツ野女史はそんなに飲まないはずである。

その事を伝えると、店員は笑顔で応じた。

「はいこれ」

彼女は紙袋を僕に渡した。

「なにこれ」

「開けて確認して良いわよ」

ガサガサと開けてみれば、これはシャンプーか。

「顔を洗って出直せって?」

「そうまでは言ってないわよ。ただ、誕生日おめでとうって」

「君には言ってないはずだけど」

「言ってなかったかしら、私、凄腕諜報部員なんだけれど」

そのプレゼントが、きっと僕の垢を落として、新しい自分にしてくれるような気がした。

一杯目は洋梨を感じさせる甘みの、淡麗な白で、二人とも気に入った。

モツ野女史のグラスには多過ぎず少な過ぎず、適切な量が注がれた。

僕は最初の一皿が来る前に飲み干してしまうほどであった。

マッシュルームのポタージュと焼きたてのパンが落ち着く。

二杯目はナッツ様の香りが濃厚な白で、はっきりした差異に気付けるので、僕たちはより一層満足した。

前菜はシャルキュトリの盛り合わせ。

一度食べてみたかった豚の血と脂の腸詰、ブーダンノワールは、あたたかくとろりとして、敷かれているパンはさっくり、挟まれたリンゴジャムも味わい深い。

脛肉の角切りをゼラチンで固めたものは、パセリの香りがクセになりそうだ。

胃袋の中に豚足、耳、タン、ひき肉を詰めて縫い直したものはあっさりとしている。

これが、田舎風パテの濃厚さと好対照で特に良かった。

「この前、部署で飲み会があったのよ、随分久しぶりの事なんだけど。そしたら、一次会も二次会も一番の上役が目の前に座って、参っちゃったわよ。周りはヨイショしかしないし、こっちも気を抜けなくてピリピリするしで、結局六杯も飲んで終電間際に帰ったの。神田の大衆焼き鳥屋で四人掛けボックス席三つ陣取ったんだけど、狭いのなんの。母体が関西にあるから、そのお店も関西人には馴染みみたいで、純けいって串を百本も持ち帰る人もいるんですって」

「ふうん」

そんなに飲めるなんて意外だったのだが、彼女が言うには、少ししか飲めないのは気楽でいられている時なんだそうだ。

「それを言ったら、僕なんて一緒に飲んだ時は決まって東西線で居眠りしてしまう。前回なんか立ったまま寝てたし。これも気楽でいられている証拠かな。だって普段は、よほど飲み過ぎでもしない限り、帰りの電車で眠らないからね。」僕はどこぞの酒客笑売には縁がないつもりだ。

入り口に本日予約満席と張り紙してあったが、この頃には全ての席が埋まった。

先にいた年齢高めの四人は一名が女性、歳の離れた男女は女性の方が十以上若い、近場で働いているかの様な見るからにキャリアウーマン然とした女性二人、それと表向きは堅気の企業勤めを装いながら実際はヤクザとしていることの変わらない様な正義の味方だ。

久しぶりの開放感をさっさと酔いに任せてしまいたい。

心なしか、隣に座っているモツ野ニコ美女史の表情が、いつもの美しさに加えて、どこか可愛らしく見えてしまう。

次の一杯はスパイシー過ぎず重過ぎない赤だった。

ふくよかと評されるそうだが、味わいの均衡が逸脱しておらずぎりぎりを踏みとどまっているのが美味い。

あたたかい前菜がもう一皿、ここは豚料理専門店だから、どれもメインを頂いている気持ちになれて僕は嬉しかった。

テリーヌなのだが、大腸、小腸、ガツ、喉を使って作られている。

マッシュポテトが敷かれており、ポーチドエッグが載っている。

割って絡めて頂くと、焼き目の食感も、混成された味わいもほんの僅かに喉の食感がこりこりとしていて素晴らしい。

次が最後となる、ベリーの風味が軽やかで、先ほどに比べてすっきりした酸味の赤。

メインの一皿は、古代種ヨークシャーと、一時期国内で七頭までに減ってしまった満州豚とを交配させた静岡の豚ロースのソテー。

シンプルな調理だが臭みは全く無く、非の打ち所がない肉質。

付け合わせの野菜や茸はどれも濃厚な味わいだったので、お肉と同等の感動を得られた。

脂身がくど過ぎず、女性でもさらりと頂けるので、これもワインに合う。

結局、彼女は僕と同じワインを一口ずつ飲んだ。

ソムリエが気を利かせて、一杯のグラスを二人に分けて与えてくれたのだった。

僕は、もう少し飲みたいくらいの、良い酔い具合だ。

「此処のモンブランが一番好きなの」と彼女が囁いたデザートも、確かに格別だった。

来月は、もう年末だ、いつの間にか。

食後のコーヒーを飲みながら、僕は少し考え込んでしまった。

【十月号】ヨモツヘグリ #008 月島 岸田屋【キ刊TechnoBreakマガジン】

いつになく忙しい日々が続いていた。

僕のような仕事をしている人間が、時間に追われながら人を追いかけているというのは可笑しな話なのだが。

ともかく、気が休まらず曜日の感覚も無くなったある日の、その日は土曜だった。

定例の連絡会が延期になり、急に時間ができた。

飲まなければやっていられない。

彼女はすぐに誘いに応じた。

ここは月島、岸本屋。

地図での印象と違って、案外駅から近い。

開店三十分前に着いたが、先客七名。

納得の盛況さだ。

煮込みが美味しいお店が満席になるのは嬉しい。

僕はこう言う光景をモツ野女史と何度も見て来たんだ。

しかし、前評判通り、早く来て正解だった。

待っている間、僕は照れ臭かったが、このお店を知った経緯を話した。

そりゃ、呑助連の中では知らなきゃモグリと言われるような名店だが、ここが東京三大煮込みのお店だと知ったのなんかつい最近のことだ。

簡単に言えば、漫画の影響を受けたのだ。

愛国者のフランス人シェフが、日本よりもフランスの方が牛肉の扱いに長けているという主張をするのだが、主人公がこのお店へ連れてきて、日本人だって内臓の扱い方を知らないわけじゃないと言うのだ。

僕は、誰かに影響を受け、受け売りの知識で話し、だからこそ誰にも影響を与えられずにいるんだろう。

四時キッカリに開店した。

僕たちは成り行きで、丁度コの字カウンターの角に座った。

横並びになるより良いかもしれないと思って咄嗟に陣取ったのだ。

聞いた通り十五人ほどの店内は、予想していたより狭い店内なのだが、何と言うか利休好みの茶室の様な落ち着きを感じる。

色々と食べ歩いて来たが、今までにない風格を感じさせずにいる懐の深さ、風情を感じる。

十三番目くらいの客らが早速揉めている。

電話で後から列に加わる予約をしていたのに対し、割り込みだと言い立てている老人だ。

難癖を付けられている側はお店の方に申し立てる。

「何分も前から並んでいるんです。一人数が増えただけで、二人組のお客が入れなくなるでしょう。電話で予約したからって、後に並んでる人がいるんですよ。お店の人が良いって言うんならそれで良いですよ。だけど僕は許さない。」

こんなことが我々の真横で繰り広げられたから、何とも“あわれ”な気分になったものだ。

入店順に注文を聞かれる番が来た。

「お客さん、二人?」

一つ先に入店した男性が首を振る。

僕の左隣にいた男性と、二人組と認識されていたようだ。

ということは、モツ野女史は右隣に着席した男性のツレということになる。

最後の二人連れは補助椅子を一脚出されて入店。

そして背後でピシャリと戸が閉められた。

結界だ、神聖さすら感じる。

16時11分にお酒が来る。

僕は瓶ビール、このお店はキリン。

彼女には幸運なことに、アンズ酒のソーダ割りがあった。

その後5分で煮込みが来る。

本当に色々な部位が入っている。

これはフワか、軟骨もある。

静かなる大絶賛、箸が止まらない。

口の中で、煮込みたちがイチャついているようだ。

肉豆腐も来る。

脂っこくなくて、葱の香りが鮮烈で、そして何と言っても辛子が良い。

二つ注文したのだが、一つしかこなかった煮込みを追加。

調子が良くなって樽酒、穴子の煮付も。

これらを注文しようとしたら、左隣が同時に手を上げたので譲った。

煮込みをも一つに焼き蛤か、渋いね。

届けられたお代わりには、さっき確保しておいた肉豆腐脇の辛子を煮込みに付けて食べる。

フワと軟骨はさっき食べてしまったので、ニコ美女史に召し上がっていただいた。

コの字カウンター左翼の夫婦と姑の会話が聞こえてくるのが和ませる。

旦那から見て義理の母だろう。

しっかりとしていそうな印象だが、娘の方で随分と丁重に話しかけている。

それゆえに末期という感じが全くないのは、見た目の若さからくるのかもしれない。

僕は、両隣に座っている男性の独り客に気が引けて、モツ野ニコ美女史とろくに会話できなかった。

ジャック・ルピック氏、ざまあ見やがれってんだ。

酔いが回ってきた。

一時間経ったがろくに回転しないから、早くから並んでいて正解だったと改めて思う。

こんな良い店から、さっさと飲んで帰るなんてできないわけだ。

これで最後、三皿目の煮込み、これにやっと七味をかけて頂く。

濃いのではないかと緊張しつつチューハイのレモンを飲んだが、美味しい。

モツ野女史はアンズ酒のソーダ割りがだいぶ濃いと感じていた様だが。

気になった銀鱈の煮付けも届いた。

彼女の隣に新たに座った男は燗酒、それとお冷やを注文している。

むちむちの煮込みが美味しすぎる。

レモンハイは氷がシャリシャリで、これまた最高だった。

そして、最後の最後になって…バターのコクを感じるのだが。

煮込みに入れているのか、私が酔いすぎているのか。

開店時の揉め事のおかげで十人に一人は変な客が居るかなと思ったが、いやいやそんなことはない、非常に居心地が良く感じられた。

行きは飯田橋から有楽町線に乗ってきたのだが、帰りは大江戸線に乗った。

ニコ美女子とのモツ煮で飲み歩きに大江戸線がつきまとうのが、この頃は愛おしい。

一駅隣の門前仲町で東西線に乗り換える。

緊張の日々から解放されたのと酔ったせいで、突っ立ったまま眠って帰った。

ろくに別れを告げることもせず、女史には悪いことをしたかな。

その後、業務上の仲間である惣酢、ではなく相津と名乗っている男から呼び出され、小岩で飲んだ。

大松という、その街では有名な大衆酒場だ。

怪しまれない様に、シラフのふりをして、そこでもモツ煮を頼んだが。

このごろは豚モツより牛モツが好きになっているのに気付いた。

約束の地、シド。

僕はそこへ、一人で行きたいとは思えない。

【九月号】ヨモツヘグリ #007 船橋 坊ちゃん【キ刊TechnoBreakマガジン】

船橋で一番のお店、そこならば一番の煮込みを出すだろう。

僕はかつての行きつけのお店を失念していた。

地元の本当の名店というものは、数ある地元のお店に紛れて、姿を眩ませてしまう。

先日、と言っても一年近く前だが、船橋で行きつけにしていたワインバルを再訪して以来、今日のお店の記憶も鮮やかに蘇った気がする。

京成のガード下を少し先へ入った位置にある、倅っこというお店。

あのお店にも、昔の知り合いに連れられてよく行ったものだ。

この歳になって気付いたのだが、ボーイという名のスロット専門店の上に看板を掲げていて、二つの店名が類似しているようで何か関連性を感じさせる。

その日の仕事は、てっきり池袋であるものとばかり思っていたのだが、合流後に渋谷だったことに気が付き、時間の浪費をせずにぎりぎり済んだ。

飯田橋で有楽町線に乗車する前に、南北線に乗って永田町経由で半蔵門線で行くことに気付いたのだった。

今回ばかりは大江戸線の出番は無し。

それと、大手町は広いので乗り換えに利用することは今回は考えていなかった。

渋谷での仕事は駅前で簡単な情報収集で、その後は銀座線で銀座へ。

特に何かをするというわけでもなく、散歩するような形で新橋へ一駅戻る。

謎の美女、モツ野ニコ美女史の装いは、どちらかといえばここ銀座向けの華やかさだ。

人形町を拠点にしているエージェントと僕とでは、住む世界が違うのかな。

一仕事終えてから一杯やるというのは、たまたま西船と浦安で近所にいるからなのだが。

こないだ、日本橋室町界隈で、なかなかの美丈夫から彼女が声を掛けられていたのには流石に驚きを禁じ得なかったものだ。

どうしよう、今日は船橋で一番のモツ煮を紹介するのに、地元のどうしようもないような連中と鉢合わせでもしたら。

一番厄介なのは、警邏中の軍閥にWが紛れていることかな。

本当の優しさを滅多に見せない彼には悪いが、何を言われるか分かったものではない。

通りをただ歩いているだけなのだが、モツ野女史から一つ提案があった。

なんでも、肉のハナヤマで滅法美味い冷凍餃子が売られているからそれを入手したいんだとか。

そこの地下が、まだ我々に焼肉食べ放題を提供していた頃にはよく行っていたから、案内した。

その冷凍餃子は、餡の中に寒天が混ぜられており、それが肉汁を吸収して保湿することが美味さの秘密なんだそうだ。

僕が彼女と会えない間、心ひそかに餃子を食べ歩いていることを彼女は知らない。

それだけに今回の紹介は、僕に少なからぬ衝撃を与えたし、それならばぜひ機会を設けて食べてみたいと思わせてくれた。

来月きっと食べよう。

新橋からグリーン車で船橋へ。

僕はこの、ちょっと物足りないような短い時間が好きだ。

三ヶ月に一度訪れるような嬉しい時間が。

くつろげる車内で缶ビールを空けながらうとうとする。

僕は、恥ずかしながら、帰路では彼女の隣で居眠りしてしまう。

この日も、その日初めてのビールを飲みながら少し寝たのだが、やはり電車が早く着いたのは少し物足りない。

予約の時間通りに入店すると、案の定、お店の中は満員だった。

休日の十七時半だというのに、これはちょっと驚異的な光景ではないか。

変わらぬ名店のままだったようでひと安心である。

懐かしの小さいテーブル席に二人で着いた。

僕は瓶ビール、モツ野女史はゆずサワー。

突き出しに何かを煮たのの小鉢が出る。

ひんやりしていて爽やかだ。

しばらくして、肝心の煮込みがやってきた。

通っていた当時はこういうのにあまり興味がなくて、実は頂くのはこれが初めてだ。

なんの変哲もない、弾力を残した平凡なやつである。

これなら前回行った神田のお店に軍配が挙がるだろう。

少し先に賀々屋もあるので、船橋で煮込みを頂くならそちらという手もある。

そんなことを思いながら、ふと、それでも我々が食べてきた煮込みは各地の名店にばかり推参していたから、案外こういうのが地元にあるだけで貴重なのかも知れないとも思った。

で、ここのお店ではやはり焼きとんを食べなければ話にならない。

先ずは、ニンニク芽豚肉巻き串。

このお店を紹介してくれた友人が、彼は出張でこの地に立ち寄ることが多かったのだが、その時には真っ先に必ず注文する絶品だと言っていた。

久しぶりに食べてみても、改めて香り高く、しゃきしゃきとした食感も楽しい逸本だ。

壺に入った辛味噌を小皿に取り、適宜つけて食べると良い。

加賀美と名乗っていた彼が偲ばれる。

ワインバルの井上、川崎のさおやんを紹介してくれた摩耶という男も加えて、我々はみんな、あのゲームセンターで繋がっていたのだった。

次に、てっぽう。

ニンニク芽から全てタレで注文している。

てっぽうというのは、直腸のことだ。

白モツのような味をしているのだが、僕は食感を含めるとこちらの方が好き。

倅っこさんでは、この食材の表面をぱりっと焼いてくれる。

てっぽうは、やや厚めのお肉なので、内部はふんわりしていて素晴らしいのだ。

そうそう、飲み屋さん駆け出しの頃に、ここの串物のてっぽうと、さおやんの七輪焼きのてっぽうをそれぞれ好んでいたんだっけ。

後は、ればー、かしら、みの。

流石にレバーは、ここから目と鼻の先に、七輪焼きの名店があるからそこには及ばないか。

しかし、このお店が仕入れている食材も凄絶であり、焼きの腕も大いに振るっている。

近所だし、また行こうと食べながら思っている。

まだ他にも、ハラミ、なんこつ、たん、しろもつ、はつ、こぶくろ、めんち、注文していないものがあり、焼きとん以外にも、焼き鳥、お刺身、一品料理、揚げ物、季節の商品と溢れんばかりなのだ。

とはいえ、焼きとんも焼き鳥も、一本百八十円からなので、質の良いのが当然ではあるのだが。

この日は他に、タコの唐揚げ、茄子ホルモン味噌炒めなど。

お酒もお銚子二つほど。

舌鼓を打ちながら、穏やかな一日の終わりを迎えた。

この船橋が取り持った様々の縁に想いを馳せながら。

約束の地、シド。

それは意外なことに、旅の果てから帰った我が家が建つ場所にあるのかも知れない。

【七月号】ヨモツヘグリ #006 日本橋 鶴田【キ刊TechnoBreakマガジン】

地下鉄からしばらく通路を歩き、最果ての出口から地上へ。

重厚な石造りの要塞染みた街並みに、眩暈がしそうだった。

橋の向こう側のここは、まさに彼岸と言っていい。

三越前は権謀術数の拠点さながらである。

楽天家の僕も、流石に首をすくめて俯き加減でいる。

きっと素性なんかはすぐに洗われてしまうだろうから。

そんな僕の隣を肩で風を切って歩く美女、モツ野ニコ美。

今日の装いは暗い色をした薄手のジャケット。

その襟元に身分証代わりのバッジをつけている。

人形町を拠点として行動している彼女にとって、ここ室町は校舎裏の空き地のようなもので、いつでも友達がいるような遊び場らしい。

繰り返しになるが、僕にとっては場違いな感じがしている。

どうして少々、いやかなり落ち着かない気分でいるのかというと、ここを歩いている僕自身は身分を偽っているからだ。

モツ野女史が襟元のバッジと同じものを僕に渡してくれていたというのが理由なのだが。

こういうのは何度やっても慣れない。

もちろん、不自然にならない程度の無表情でいる努力は怠らないが、それと同時に演技力ばかりが向上していくのが果敢ない。

僕とは打って変わって、からりと晴れた夏の日差しのような表情の彼女に、今は寄り添って歩くしかない。

「実は、そろそろネタ切れなんじゃないかって思っていたんだ」

「何、お店が?そんなことってあるのね、貴方よほどこだわって選んでくれているから」

そうだ。

僕たちはドラえもんやサザエさんの世界にいるんじゃない。

この生活は、時間の流れを感じなくなるほどに引き延ばされている様でありながら、実際には現実感の欠如が漂っているだけ。

煮込みが売りの居酒屋さんなんて、そういくらもあってたまるか。

名探偵が行く先々で人が死ぬようなものじゃないか。

僕たちは創作の世界の住人じゃないし、この物語を読んでいる人たちは本当に少ない。

そんな気がした。

下調べしておいたお店は、建物を隔てて一つ向こうの通りにある。

道を折れると、ガラス張りのひさしがせり出した大きなテラスだ。

明治神宮とまでは無論言えないが、都心のほんの一角を、緑で飾り立てて憩いの場にしたいという心意気が感じられる。

僕はこの界隈に明るくないため、この光景に出くわして驚いた。

モツ野女史の表情は変わらない、明るいままだ。

陽が沈んで、真の意味での僕らの時間が来るまでまだまだ時間がある。

なんだか全てが爽やかで、さっきまで僕の気持ちが沈んでいたのが、なんだか馬鹿みたいに思えてきた。

突っ切って車道沿いへ出る。

「乃二子さん!」

行きがかりのスポーツカーから顔を出したのは、霞ヶ関でさえお目にかかれない様な美丈夫だった。

いったい何処で仕立てたのかというような格子模様の生地のスーツは嫌味さがなく、ただ着ているのではなく着こなしているというのが分かる。

男は二、三軽口を叩いた後に、悪戯っぽい笑顔を残して車と共に走り去った。

「のにこって…?」

「人形町ではそう呼ばれてるのよ」

良い印象を抱かなかった男のツラの余韻を、彼女のあっははという哄笑がかき消した。

なんだか今日はそわそわしてたまらない、さっさと酔ってしまいたい。

通りの一つ向こうを少し行って、そのお店はあった。

ここはすでに神田駅前と言ったって良い。

人目を引く真っ赤な灰皿、それとスタンド看板。

もつ焼き 煮込み 鶴田

入り口の脇にビールケースをひっくり返してできたテーブル席が二、三。

中の座席は全て埋まっている。

僕は予約しておいた名前を告げた。

時間がずれ込んでいるとのこと。

席はすぐに空く予定なので準備するとの由。

それまでテーブル席で飲み物を飲んでいてほしい。

以上、諸々伝えられたが、楽観的にならず予約して良かった。

奥のテーブル席の男と背中で触れ合うことになるので、僕たちは隣り合って腰掛けた。

僕は瓶ビール、彼女はあんず酒のソーダ割り。

梅酒も置いてあり、選べたのは良かった。

奥の向かいには、男の連れの女性客が居て、さらに店内が見渡せる。

十名規模のL字型カウンター、四人がけの正規のテーブル席が三つ。

運ばれてきたグラスには『竹野内 豊』と印字されている。

これには驚いた。

つい最近、大昔の特撮のリメイクとして作られた邦画を二本観たばかりだったからだ。

それすらも、五十年前の名画ではあるのだが、その二作で印象的に登場していた俳優の名がそれだった。

モツ野女史もたまたまそれを観ていたので、以前その話題で盛り上がったこともある。

乾杯して、僕はその日特に多く流した汗を補った。

懐かしいその二作の映画を振り返りながら。

で、瓶ビールが一本空いてしまった。

すぐに空くと伝えられた席の方はまだ空かない。

奥のビールケースに陣取った男女にはすぐに煮込みが出された。

僕は『すぐに』席が空くと言われたことと、それまでは『飲み物を』飲んでいてくれと言われたことの二点に縛られていた。

竹野内豊と書かれた空きのグラスと、いつ言い出せるのかも分からない品書きを眺めながら。

目の前の女性客が、煮込みに箸をつけるなり、人眼も憚らず黄色い声を上げた。

あまりの柔らかさに感動が堪えきれなくなったのだ。

そのまま串物の注文も始めている。

ここから先は、思い出すのも嫌だからくわしく書かない。

カウンターが空いてから通されるまでにまだ時間がかかった。

向かいの男女がそこに移りたいと店員に申し出ていた図々しさに腹が立った。

肝心の煮込みはすぐに出る。

あろうことか、味はいたって普通だった。

串物の値段は相場の二割増し、都心の価格は腐敗している。

ブレンズなどのように、希少部位と呼ばれる物も確かにあるのだが。

それを焼き手は一人で二十本も三十本も焼いている。

案の定、黒焦げになった側がお皿に向けられて提供されることになる。

数量限定で焼きメンチというのがあるが、見るも無惨な代物だ。

ふと壁を見やると、禁酒町いや錦糸町に姉妹店があるという。

競馬中継でも見ながらこういうゴミゴミしたところで飲むホッピーは格別だろう。

問題は、ここが日本橋室町であるということだ。

もはや室町というより、神田という土地に対する嫌悪にすら発展しそうである。

散々に書いたのは、散々な感傷に浸っていたせいだろうか。

カウンター右隣で何も知らずにニコニコしているニコ美女史に申し訳なく思える。

だからこそ、このお店で眩しかったのが彼女の笑顔だった。

などと気が利き過ぎるが為に、歯が浮くようなことを書こうと目論んでいる訳ではない。

むしろ、値段の倍くらいに盛られたモツ刺しが、安くて美味くて新鮮で眩しかった。

気が良くなって日本酒の徳利がついつい何本も空いた。

思い出したが、その日は寝不足で、にもかかわらず飲みの誘いを強行してしまったのであった。

なんだか最近、調子出ないな。

食べ過ぎだろうか。

【六月号】ヨモツヘグリ #005 門前仲町の名店【キ刊TechnoBreakマガジン】

店舗は、忽然と姿を消したわけではなかった。

だが、下されたシャッターの外側で、僕たちは呆然と立ち尽くしていた。

中には確かに人の気配がする、酔客らの談笑が聞こえて来る。

僕たち二人のためにあるかのような張り紙。

いついつから閉店時間が繰り上げられたと告知されている。

今は十九時二十分。

L.O.十分前のようだった。

通りの向こうに袖看板が見えたとき、不慣れな街ゆえの安堵があった。

四人連れの背広姿が踵を返すのが見えて、まさかという気がした。

実は先月一人で様子見に来た際、臨時休業だったからだ。

まさか、また。

門前仲町の名店、大坂屋。

理由は違うがまたしても食いっぱぐれたようだ、どうやら。

不慣れな街に慣れるために一度来たのだが、この日は別経路で来店したのだ。

しなやかな着こなしの、モツ野ニコ美と名乗る美女が手土産を持ってきたから。

その手土産は手掴みで、この後に控える乾杯の練習をしてから頂いた。

おむすびでも頬張るみたいに、一体何が結ばれるんだろうと考えながら。

広場を探し、ベンチに腰掛けて。

その公園は案外すぐ見つかった、近所の小さい子らがを母親たちに連れてこられていた。

ユークリームという人形町の名店のものだった。

苺と生クリームのタルト、チョコレートとフランボワーズのクーヘン。

僕は後者を選ばせてもらった。

濃厚なチョコレートが口の中でこってりと溶け、フランボワーズの強い酸味が二口目、三口目を強烈に促す。

毎日でも食べたいが、僕はスイーツ中毒になっていないのが救いか。

僕は手を伸ばしても食べられないものが食べたいのだ。

こんなふうな差し入れなんて最高じゃないか。

自分で自分に差し入れるわけにもいくまいし。

周囲に巻かれたフィルムを剥ぎ取って、くっついたチョコレートを舐め取る。

「僕は、ここが一番好き」なんて言ったりして。

一食一飯改め、優しい約束の宜敷準一にフードロスはあり得ない、いや。

「芥川龍之介に、ケーキを巻いたフィルムばかり寄せ集めて、好きなだけ食べさせるって話、あったわね」悪戯っぽく横顔を見つめられている。

あれは五位の心理と行動と変態食欲と貞操観念のアラベスクだ。

そう考えるとこの物語も、ヨモツヘグリと言わず、芋粥としてもよさそうだ。

あれには道中を共にする利仁というバディも居たっけ。

『芋粥を舐めるのは、お前ではあるまい。邪なるイエス、矮小な待ち人。五位の役回りを演じるにはもっと相応しい男が居るし、何よりお前にはあの芋粥を全て平らげるだけの業を授けてやらねばな。』

頭のどこかで声がしたような気がして、yは少々暗い気持ちになった。

その声の主が誰なのか、彼が知るのはもうじきのことである。

口にできないものを食べるのがヨモツヘグリの極意であるとしたら、一度口にしたものを再度口にするというのは一体何と呼べばいいのか。

ところでその頃、“団地”こと習志野軍閥行田駐屯地ではW大尉が大きなくしゃみをした。

ソゥ准尉はそんな彼に「Bless you!」と言ったが、大尉はその心意気を気に入った。

顛末を知らないのは、まるで世界で彼だけのようなのが皮肉だったのだが。

地下鉄の駅から門前仲町の地上へ顔を出せば、街全体が縁日のような風情である。

先日の下調べで見ているとはいえ、まだ慣れるには少しばかり異様な光景だ。

脊椎のような大通りから、ぐっと外回りで大坂屋まで行くところだったが、しっぽりと手土産に舌鼓を打つのに肋骨のような路地へ踏み込んだ。

仏門か宗門か神門か知らぬが、なにやらその手の門前なのだろう。

かつてそこらの神社で日本刀を用いた殺しがあったというらしい。

下見の段で大坂屋が臨時休業だった時には、落胆しながらも隣の路地を覗いて、煮込みと書かれた随分と大きな赤提灯を頼ったのだった。

規模の小さい中華料理屋染みた引き戸を開けると、なんとカウンターのみの立ち飲みで店内に入れるのはせいぜい六名程度、券売機で食券を買うというのが笑えた。

出された煮込みは、これはこれは、加賀屋名代の煮込みのようではないか。

そんなものは加賀屋で頂けば良かろう。

さて、今夜ニコ美嬢をエスコートすべき、煮込みを提供してくれる夜会はどこだろうか。

そんなことを話すために、例の路地へと連れ出してきたのだが。

店舗は、突然に姿を現したのだった。

路地を曲がり、大きな赤提灯が視認できる程度の距離で、さらに右手へと折れる方だ。

ひさしの小脇に書かれた、あの文字は。

店舗正面に横向きに置かれたスタンド看板に書かれた、あの文字は。

煮込みバル、と書かれている。

辺りはまだ真っ暗になりきってはいなかったが、さながら我々を誘う魔の巣が目の前に現れた様だった。

店の前まで行くと、以前はスナックだったとでも言いたげな扉の作りをしている。

僕たちは見つめ合い頷いてから、意を決して把手を掴み開いた。

ダウンライトの落ち着いた光が溢れる店内に、小綺麗な四人掛けのテーブルが三、四。

金曜の夜なのに他の客は一組もいない。

「どうぞ」

まだ若手に属するようでありながら、しっかりした体型の店主が笑顔で言った。

以上が、金曜の僕たちに起こったささやかな奇跡の一切合切。

真ん中のテーブルに着く。

飲み物のリストから、ちょっと洒落っ気を出してヒューガルデンの生。

モツ野女史にはぴったりの、あらごしもも酒があったのでソーダ割。

正面の黒板にこの日の煮込みが四種類書かれている。

豚肩ロースのトマトチーズ煮込み

合鴨と黒トリュフのクリーム煮

和牛すじ肉の赤ワイン煮込み

肩ロースとポルチーニのフォンドボー煮

左右の壁にはそれ以外のメニュー。

前菜や各種アヒージョ、豊富なパスタ。

飲み物が運ばれてきた。

「今夜は暑いので」

と気の利いた一言を添えて、野菜の彩が美しいピクルスが提供される。

鰹のカルパッチョ、煮込みを二種類注文。

ビールを飲み終えたらワインにしよう。

なんでも、ここの煮込みは白にも合うように味を整えてあるんだそうだ。

その夜、僕は少し悩ましかった。

食べ放題のバゲットに添えられた、バニラ香るバターがあんまり美味しかったからかもしれない。

【五月号】ヨモツへグリ #004 森下 山利喜【キ刊TechnoBreakマガジン】

約束の地、シド。

約束という言葉は、優しさだ。

絶対や永遠などと言う、神との有耶無耶な契約とは違う。

人を信じる、人を信じている自分を信じる。

そこにしか約束はない。

約束の地、シド。

絶対は無い、だから面白い、それが楽しい。

大江戸線という、悪い冗談のような名の地下鉄があるとかないとか。

飯田橋地下には東西線、南北線、銀座線とあるが、大江戸線の乗り場なんて見かけたことがない。

などと言っては暴言にもなりかねないが、そういう視点もあるのだ。

無論、十分に調査してはあるから、知ってはいるが識らない。

ということは、大江戸線の方でも僕のことを知らないと言うことだ。

そういう存在ってあるだろう。

などと下らない事を思いながら、雨の日本橋室町の裏路地でモツ野女史を待った。

暑がりの僕にとっては心地よい冷気だ。

そろそろ彼女の、我々の世界での名が知りたくもある、それが僕にとってはyであると言うような。

しかしながら、識ることによってほんのわずかであったとしても関係性に変化が生じるのは望まない。

正体不明、謎の美女、モツ野ニコ美と、コードネームyこと優しい約束の宜敷準一。

こういう二人の関係のままがいいのだ。

お互いを契約で縛るような、優しくない真似はしたく無い。

サマになる渋いジャケットを羽織ってその女性サマは来た。

「今日は洒落た店でワインでもと思って」

「あら、イタリアンかしら。ハチノスをトリッパって言うのよね?」

大衆居酒屋の飲み物の選択肢の狭さに辟易していたためだろうか、彼女の瞳は普段見かけない色を帯びた。

「いや、すまないがそうじゃない」僕は苦笑しながら言った。「今日の大衆居酒屋は洒落ているからワインを提供するんだ」

意に反して爽やかな微笑み。

今夜、結果的に梅酒くらいはあったから、彼女が好きなソーダ割りを注文できたのも良かった。

門前仲町から二駅、もんじゃ焼きの街とは逆方向へ。

いよいよ、生きていて指折り程度しか乗ったことがない大江戸線に乗った。

願わくば、今日のお店へ足繁く通うようになり、大江戸線からも僕のことを知ってもらえますよう。

地上に出てみれば大きな十字路が、三ノ輪駅前大関横丁交差点を彷彿とさせる。

お牛様のモツも好きだが、お酉様に繰り出すのも縁起のいい風を感じられるから好きなのだ。

「ふぅん」お嬢サマみたいなモツ野女史が冷笑を浮かべて言った。「神社なんかに興味があるのかしら、全く別の施設に行くんじゃなくて?」

「行くのはそこでじゃない」

「不潔よ」

今度はキッパリ言われてしまった。

冗談が昂じてしまうのは僕の悪い癖かもしれない、反省だ。

「後悔しても反省しないが、一食一飯の宜敷準一なんじゃなくって?」

何だ読まれていたか、自己肯定感の高まるような否定の言を頂けた。

あるがままの姿だろうとあるべき姿であろうと、らしさを忘れてはならない。

「今日から僕は、優しい約束の宜敷準一だ」

「ふぅん、それなら私は、ミルキィでママの味のモツ野ニコ美ね」

信号待ちをして十字路を渡ってすぐにお店があるため、雨降りだが助かった。

本館と新館とがそれぞれあるのだが本館へ。

新館は煮込みを提供していないそうだ。

戸を開けると階段だけがあり、上か下かへ通じている。

そこで店員さんからの指示を受ける。

待たされることなく地下のテーブル席に通された。

ビストロという言葉がぴったりで、殆ど満席ながらそれほど窮屈な感じはしない。

十年ぶりくらいだろうか。

久しぶりのこのお店へのエスコートが叶って良かった。

ここに来るの、僕は結構楽しみにしていたから。

瓶ビールと、辛うじてメニューに載っていた梅酒ソーダを注文。

黒板に書かれている鰹の刺身、冷奴は海苔の佃煮を載せたものも。

テーブルで向かい合うと、さっそく唇の瘡蓋について聞かれた。

ありのまま話した。

一回ハズしたせいなのか、外れくじばかり引く羽目になったこと。

餃子に絞った焦点を少しハズして、焼き小籠包にしたら痛い目にあったこと。

目隠しして食べたら分からないかもしれない二杯の坦々麺は、それでもあの食感がもう気になっているのだということ。

赤星と梅酒ソーダと、お通しの細切り大根の酢漬け。

さらに最初の注文品が続々と届いた。

乾杯して飲み始める、仕事のことを忘れられる月に一度の時間。

六等分された冷奴を二人でつまむ。

モツ野女史は海苔の佃煮を自作したことがあると言うから驚いた。

飛んだ酒呑みじゃないかと思ったが、お茶漬けにするのが良いらしい。

僕の場合は時間がないからお茶漬けが好きなのだが、彼女はその時間を延々と煮詰める時間に費やしたのか。

煮たといえば筍も煮たのだとか。

職人魂の塊じゃないか、素直に感心する。

刈根流大衆活法の奥義に、無店無刀というのがあるが、それに通ずる。

店で飲まず自分で作る、包丁に頼らず自分で作るということに。

表面にごくごく薄く焼き目のついた鰹は、焦げた不快感や食感の差異を全く感じさせず、もっちりとした快感を口中に与えてくれる。

お刺身が美味しい大衆居酒屋さんは、高級割烹と言って良いのではないか。

他のお刺身、わけぎとマグロのぬた、コハダ酢こういうのも気になる。

食べきってしまう前に煮込みを二皿とガーリックトースト。

ここで僕はグラスワインも注文。

「ねぇ、さっきのハズしたって話だけど、一食一飯の社員食堂の回みたく?アレはきっと習志野軍閥行田士官学校の食堂って事よね、例の団地」その手の者とバレないように、彼女は声低くして目配せしながら言った。

読まれている、僕は苦笑して頷いた。

「ラーメンドラゴンボウルのお蕎麦の回とか。ねぇ、一体何の任務で長野県の山になんて行くのよ?」

無論、野外訓練の指導教官としてだが笑って誤魔化した。

熱々の素焼き皿に入れられて、ふつふつと音を立てている煮込みがやって来た。

持ち手は別添えの鉄器になっている。

入れ違いに串物を注文。

シロと呼ぶべき部位はすでに濃い茶色に変わっているのだが、プルプルした脂が付いていて食べ応えがありそうだ。

色の秘密は連綿とつぎ足された歴史と、それに使われた赤ワインである。

他にはギアラのみ、ネギが薄い輪切りになって載っている。

五十円ほど追加して煮卵入りの方。

頬張れば、店構え同様に洒落た味がして、僕はこういうのが好きだと改めて感じた。

ガーリックトーストなんて、洒落過ぎていて鼻につくと言わないでほしい。

パリの裏路地のビストロを、ここ森下の下町に再現したって良いじゃないか。

串物は普通といった印象。

ここは一皿二本で三百円である。

だから、二人で飲みに来れて幸いだった。

【四月号】ヨモツへグリ #003 川崎 おさやん【キ刊TechnoBreakマガジン】

約束の地、シド。

誰がそこに行く。

僕と、その他に誰かが。

その誰かと、僕は会えるだろうか。

いつか、どこかで。

七輪の煤煙に包まれて。

策が成るか成らぬか、成るように為すのか。

二十日ほどの勤労、心労、気苦労、過労。

あとは実働部隊が為すこととして、僕は連絡会の帰路についた。

隣を歩いているのは深緑のコートを着た女性、謎の女モツ野ニコ美。

風を切るようにして二人は、日本橋一丁目を歩く。

僕は肩の荷が降り、彼女は現状の成り行きに満足していた。

「時に」と言って我ながら可笑しな日本語を口走ったものだと思わず笑い、「銀座線で新橋へ出てから、川崎まですぐなんだけど。」口調が統一されていないのがさらに可笑しい。

「川崎、そうね」彼女が微笑してこちらを向いた。

「覚えてる?」

「もちろん、いつ行けるか楽しみにしてたの」

「今夜」その日初めてしたかのように、僕たちは目を合わせた。

解放感をビールで恍惚感へと止揚する、おあつらえ向きの夜だ。

寒風すらも肌に心地良い。

川崎駅前は、さながら「池袋」の活気である。

さくら通りを横断しようとすると、外国人旅行客が立ち止まり、地面に向けて硬貨を投げた。

何かと思いそちらを見ると、ボロを着た老人が、そばに平皿を置いて地べたに座っていた。

誰が乗せたか、硬貨の枚数はそれなりにあるようだ

横切ろうとしてすれ違った、これもまたボロを着た別の老人は、高濃度酎ハイの缶を手にして歩き飲みしている。

歩き飲みの老人は、地べたの老人を忌々しそうに見下して、何事か口にしながらとぼとぼと歩いて行った。

約束の地、シド。

あるとすれば、それはここかもしれない。

そうであっても構わない。

新川通りの左側をしばらく歩く。

通りの向こうはまるでサンシャインシティを平屋にでもしたかのような施設だ。

四つ目の曲がり角は、いくらか狭い路地なので見落とさないように。

そこで折れて少し行けば、軒先に七輪を積んだその店「さおやん」が。

ガラリと引き戸を開け、奥へ。

店内は満員御礼。

そんな気がしたので席は予約しておいた。

ここ川崎総本店は朝九時まで営業しているから、待っていることができさえすればいずれ席は空くのだろうが。

モツ野女史が決めるのを待つ。

梅酒ソーダ割り、ふむ彼女の好みが分かってきた。

僕は瓶ビール。

これに併せて、煮込み二つ、鶏ユッケのマヨネーズ味二つも注文してしまう。

すぐに届いた飲み物で乾杯して喉を鳴らし、深くため息をつく。

それからすぐに注文の品が届いた。

ここの煮込みは、言うなればジャパニーズトラディショナルシチューだ。

中にはちょっと何が入っているやら分からないが、色々とゴロゴロとしていて美味しい。

硬すぎず柔らかすぎず、ハッキリと形が残っている髄がたまらない。

一口頬張って、グイグイとビールをあおる。

僕が世界で二番目に好きな煮込みである。

向かいの女性は無言で、しかしながら箸が止まらないといった感じで食べている。

鶏ユッケは満遍なくマヨネーズで和えられている。

「これが鶏マヨね」モツ野女子は臆することなく卵黄を崩し、食べた。「あっはは、これも良いわね。ねえ、七輪で焼くものも注文しましょうよ。これしかないと、すぐ食べ切っちゃうもの。ゆっくり焼きながら、それに合わせてつまみたいの」

「焼くものを注文するのももちろん良いが、食べ切ったら追加したって良い。僕はね、卑しく聞こえるかもしれないが、ここに来るたび鶏ユッケはお代わりする気でいるんだ」

と言って気付いた。

一人じゃない、独り占めじゃない、報われる瞬間だと。

ここではシビレを食べておきたい。

他所ではなかなかお目にかかれない。

シビレの語源は、sweetbread、甘い肉を意味する膵臓のことだ。

このsweetbredという言葉が日本に輸入されたため、sweetの音から膵臓と呼ばれたんだとか。

膵臓とは全く別の位置にあるものの、胸腺の事も指すそうで、まとめてそう呼ばれている。

膵臓は足が速いので、実際に店舗に出回るのは胸腺であることがほとんどらしい。

仔牛の胸腺は、フランス料理でリードヴォーと呼ばれる。

それと、刻んだネギがたっぷりと載ったハラミ。

それぞれ七輪に載せて、炭火でじっくりと焼いていく。

早くも僕の鶏ユッケがなくなったので、予定通りお代わりを注文。

それから、賽子状の豆腐、納豆、めかぶ、おくらの上にとろろがかかり、生のうずらの卵が載っている、ずるずるという商品も頼んだ。

これは醤油を適量たらして、箸で滅茶苦茶に掻き混ぜてから頂く、いわゆる爆弾というやつで、僕にとってはこれくらいのタイミングで持ってこいの逸品なのだ。

焼き目がつかないようにじっくりと焼いたシビレを互いの皿に載せる。

以前は付いていなかったが、別皿に特製パウダーが盛られている。

ははぁ、パリパリに焼いた鶏皮串に振りかける例のあれか、悪くない。

シビレはもちもち、くにくにとした食感だが、味わいは白子のように濃厚だ。

このお店、川崎さおやんには、ならではの商品が多いからいつも来店を楽しみにしている。

どうしたらこういうお店を見つけられるのか、と黙って食べていたモツ野女史が満足げに聞いてきた。

十何年も昔の記憶が一気に蘇る。

路地裏の溜まり場で一際懇意にしていた、三歳年上の摩耶という変わった名の男。

学生の頃に連れられてきて以来大好きなお店になったのだった。

彼はすぐにトヨタに就職が決まって、愛知県に越してしまった。

あんなに魅力的な人格者だったのに、最後に会った日には気弱になっていた。

友達なんてあの人にはすぐにできるだろうに、なぜか分からなかった。

会うときは決まって、僕一人だけと会っていたという理由も。

ここでならまた会える気がして、毎回通っているのかもしれない。

【人生5.0】Junのヨモツへグリ #002 西船橋 串屋横町【ONLIFE】

約束の地、シドはどこにある。

僕たちはいったいどこで再会を果たす。

山林など消え失せてしまったこの地上で。

まばゆい電光掲示板を見上げ、下水の汚臭に気付かない。

張り巡らされた下水道のような道を行き交いながら。

その日初めて出会った僕たちは、まる福で軽くひっかけて店を出た。

向かいの女性の髪型や化粧、仕草など特に気にすることは無かった。

それは僕の習性なのだろうか、わからない。

もう一つ分からないことがあった。

女性というものがどれくらいの量を適量として食べるかだ。

店の前の通りを向こうへ渡って、そのまま前進。

他に店も無いような裏町の四つ角に次の店。

移動にわずか一分、目と鼻の先だった。

冷えたビールとサワーがもたらす冴えた外気から逃れるように、足早に移動した。

勝手の知らない女性を引き回す羽目にならなくて良かった。

この梯子は個人的に一人飲みの際に使おうと思った。

次の店はさらに空席が多かった。

串屋長屋は県内と都内に、やはり五十店舗ほどを展開している。

賀々屋と規模は全く変わらないが、一九六五年創業に対して二◯◯三年創業だ。

意外なことに、一号店と二つのセントラルキッチンが存在するのは茂原市だ。

もつ焼きが食べたいと客が思った時に、真っ先に思い出されるお店でありたいという理念があるらしい。

まさに賀々屋の牙城を崩さんといった意気込みだろう。

だから今夜、ここへもつ焼きで飲みに来た。

四人がけの席に二人で着く。

混雑が始まった賀々屋の風情とは違う、明るく清潔感のある店内だ。

僕はたまに亀戸店に行くので、プラスチック製のドリンクパスポートを所持している。

カードにシールを三枚集めると、特典として最初の一杯を無料にしてくれる。

次年度はブラックカードへのランクアップが待っているようだ。

今夜これは出さないでおくことにした。

お通しのキャベツが運ばれる、これはおかわり自由。

レモンサワーをピッチャーで注文。

いつものバラ軟骨1号。

これは、とろとろに煮込んだもの。

ちなみに2号は薄切りのを焼いたもの。

目に付いた馬肉のタタキ、お得サイズで。

同じ1号でもレバー1号というのもある。

角切りの豚レバーをザッと焼いたやつで、安くて美味い。

不思議なことに2号は存在しないのだが、レバーフライも安くて美味い。

モツ野ニコ美と名乗った女性は、レバーがあまり得意では無いそうなので見送った。

お酒に関しては、杏酒や梅酒のような甘いのをソーダ割りにしたのが好みだという。

残念ながら、そういうのはここには無い。

止むなく彼女はピッチャーからレモンサワーをジョッキに受ける。

僕もどういう心境の変化か、ビールをやめてレモンサワーに移行。

乾杯して飲み始める。

僕はビールを飲んでいる姿を、他の女性に見せたく無いとでも内心思っているのだろうか。

今はがぶがぶとビールを飲み干せなさそうだから、こういう酸っぱいのが丁度良かった。

たいして待たされることなく注文が届いた。

時間のかかる串物をこのタイミングで頼む。

「熱いぞ」

「ありがとう」微笑しながら彼女が言う。「けどすごく美味しい」

ほろほろに煮崩れた肉と、どろっとして原型を止めていないゼリー状の軟骨。

鼻に付く臭みには目を瞑って、練り辛子の痛みに耐えることにしよう。

不味く無いはずがない。

禁忌の食材を時間が解決する。

いや、圧力鍋が何とかしたか。

邪推を口にするのは無粋だ、相手に失礼になる。

馬肉のタタキは赤身の淡白さがはっきりしている。

脇にあるおろしニンニクを遠慮なくつけて食べる。

「お通しのキャベツに付いてきた辛味噌の方が合うかもしれない」

「馬肉に味噌って、信州スタイルって感じね」

そんなことを言われて、ずいぶん前に飯田駅前の箕輪へ食べに行った記憶が蘇った。

信州飯田名物、馬のおたぐりだ。

馬の内臓を手繰り寄せて捌き、煮込み、無駄なく食べられるように工夫したものと考えて差し支えあるまい。

首都圏では絶対にお目にかかれない、安くて美味くて新鮮で量の多い現地の馬刺しに思いを馳せる。

「素材が無いから文化で飲むんだ」

「飲み屋の流儀?」

「僕らはその文化を生きているだろ、今まさに」

「客が店を作るってことね。次は人でごった返した平日の夜中が良いわね」

笑って頷き、ジョッキを空けた。

向かいの女性の酒量は控えめだ、ピッチャーの残りは僕が明けることになるだろう。

串が届いた。

一本目は赤モツMIX。

ここはいちいち塩かタレか聞くような野暮なことはされない。

タン、ハラミ、ハツが二つずつ交互に刺さっている。

この方が五本盛りを冷ましてしまうより良い。

味わっていてもまだ冷めるような時間じゃ無い。

二本目はスーパーホルモンロール。

ぷるぷるしたやつがいくつも刺さっている。

僕はこういう、一寸冷めてもとろとろなのが好きだ。

白もつをパリッと炙った串なども確かに良いが。

飲み食いして、満足して会計して帰った。

他にどんな会話をしたか、覚えていない。

いや、ろくに会話しなかったのだろう。

色っぽいことには期待していない。

ただ、次の仕事を楽しみに待っている。

【人生5.0】Junのヨモツへグリ #001 西船橋 まる福(加賀屋船橋店支店)【ONLIFE】

約束の地、シド。

僕たちはそこで再会を果たす。

桃の木には瑞々しい肝臓が。

薫風には七輪で焼く味噌の風情が漂う。

さらさらと音もなく川を流れる大腸は澄んでいる。


「コードナンバー0253」深緑のコートを羽織った女が駆け寄って言った。

「今はyだ」僕は僕なりの礼装のつもりで、黒のウールで仕立てた風変わりなトレンチコートを羽織っている。深紫のマフラーはもう毛玉だらけで、手放す頃合いだ。

「ワイ?それは大文字じゃ無いんでしょう」肩ほどの髪が茶色く揺れている。

「当たり前だろ、だから好きに名乗っている」

「モツ野ニコ美よ、よろしく」

僕は吹き出した。

なるほど、彼女は彼女で好きに名乗っているらしい。

僕の名前も先に言われてしまった。


はるばる裏芝浦までやって来たが、収穫なしの空振りに終わった。

今回はただの顔合わせだった、気楽なのは良いことだ。

駅までのバスに乗って、下らない話をする。

僕は西船橋まで、彼女は隣街だという、結構なことだ。

習志野と墨東とのゆるやかな協調路線に加えて、半東京と呼べそうな地区とのつながりがもてるのは良い。

都内からの渡葉を三番瀬渡りとも言う。

三番瀬渡りの経路は二つ。

上野から京成を使うか、大手町から東西線を使うか。

三田から大手町へ出ることにした。

大手町では本数の少ない列車がちょうどやって来た。

混雑した車内で丁度座席が二つ空いている。

お互い腰掛けて僕は一息ついた。

何も言わずに目を閉じて座にもたれた。

気付いた時には車内で独りきりになっているだろう。

なっていなかった。

席は相変わらず冷え冷えとしていた。

仰向けにでもなるかのような無防備さで惰眠を貪っていたのだが。

外の景色は原木を過ぎている。

「お客さん終点ですよ」僕は真顔で言った。

「そうね、西船橋に着くわね」

「何だ、どうした?」

「コレがまだじゃない」と言って手首をクイと上へ持ち上げた。「仕事の後は仕事って、昔から言うでしょ?」

そんな言葉は聞いたことがないが、僕は首肯した。

趣向を凝らした酒肴が良いと思った。

棄てられるはずの物。

食感も味わいも不適な物。

禁忌の食事。

解決の糸口は時間にある。

棄てられる前に目を瞑って口にするか、三日ほど釜で炊いてしまうか。

「じゃあ、麗しきコードネームの姫君には、お似合いの物を」

「城下町の大衆店に行くの、嫌いじゃないわよ」

車掌と改札員に通行証を見せて北口へ降りた。

賀々屋は都内に五十店舗は下らない一大勢力である。

どの店で食べても同じ味をさせている。

僕は、そこの煮込みが一番好きなのだ。

千葉にある賀々屋はわずか数店、どれも船橋界隈に偏っている。

船橋店、船橋店支店まる福(西船橋に存在する)、まる福の裏手に西船橋店。

西船橋店の真上に、なんとも大胆不敵なのだが、タツ屋という店舗があり、そこのもつ煮も同じ味がする。

タツ屋は船橋店も存在している。

今回は西船橋に所在する「船橋支店」のまる福へ。

駅を出て徒歩一分と言うのは、船橋支店も西船橋店も同じなのだが、こちらは大通り沿いなので威勢が良くて好きだ。

大暖簾を手繰り、引き戸を開ける。

戸には黄色い貼り紙で「桃サワー」と書かれていたのが印象深い。

僕は麦茶のように麦酒を飲むのだが、はてさて姫君はどうか。

奥の広間に案内された。

がらんとしているのは十七時過ぎだからか。

若いアジア人女性が早速飲み物の注文を取りに来た。

決めかねているようなので、少し待って貰う。

二人はコートを脱いで席についた。

飲み物のメニューを眺めて、やはり桃サワーにすると言う。

店員さんを呼び、瓶ビールとサワーをお願いする。

アサヒかキリンか、キリンにした。

そのまま煮込みと、ホワイトボードに書かれた鶏マヨが気になったのでそれ。

「この店の煮込みが好きなんだ」

「良いじゃない」

「平らげたら店を変えよう」

「別に、いいけど」僕の真意を測りかねると言った顔をしている。

賀々屋は大好きだ、煮込みが一番美味い。

もつ焼き、刺身、揚げ物と提供される商品も充実している。

だが、煮込みを食べ終えたら、近所に美味いもつ焼きを出すお店があるのだ。

飲み物と同時に煮込みがすぐに来た。

大鍋から即提供、この速さが良い。

瓶ビールは大瓶、サワーのジョッキも大きい。

何の変哲もない液面しか見えないが、味噌仕立ての薄口つゆは大腸の脂でこってりと濃厚だ。

散っている輪ネギ以外に野菜はなし、大根人参一切なし。

散り蓮華ですくい上げると、とろっとろになって、干からびてしまったかのようなシロもつ。

さらに、まだ脂を身に纏ったような、コクのあるやつが半々で這入っている。

碗底にはかさ増しのための豆腐が大きく一つ、なのだがこれは美味い豆腐。

取り皿に分けて勧めた、僕は碗から頂いてしまう。

乾杯してビールを飲み干す。

心地よい。

もつ煮は相変わらず美味い。

男と来ていれば一人で二杯食べてしまう。

後を引く旨さなのだ。

目の前の女性も頷いている。

鶏マヨが来た。

ははぁ、これは海老マヨの鶏版か。

鳥の唐揚げを赤味のあるマヨネーズソースで和えている。

一口かじると、驚くほどにプルプルしている。

こんな調理法があるのだろうか、全く予想がつかない。

モツ野女史も同意見である。

猫舌なのか、食べる際には慎重だ。

もしかすると化粧を気にしていたのかもしれないが、男の僕には分からない。

「鶏マヨといえば、川崎に良い店がある」

「鶏マヨの?こういうの?」

「いや、これとは違う」僕はニンマリして言った。「そこの煮込みが二番目に好きなんだ」

「あら」

「次はそこへ行こう、仕事の後の仕事へ」

僕たちは笑った。

一杯ずつの酒と、二品のつまみ。

平らげるのにそう時間は掛からない。

だが、空席が次第に埋まってくる。

ちょうど頃合いで会計へ行った。

丁度一人千円。

すぐそばの店では、バラ軟骨の煮込みに、もつ焼きを数本と算段しながら店を出た。