先日、バンド一同でシン・エヴァンゲリオンを鑑賞してきた。
筆者のJunは新劇場版の全てを劇場で複数回観ている。
長かった、家庭を持たない自分はこれでやっと死ねるという気がしている。
バンドでの鑑賞の時点で二度目、その後もう一度観た。
Shunメンバーは全てが未見だったが、一ヶ月程度かけて自宅の大画面でシリーズを鑑賞してから来た。
短期間にあれを全て観ると言うのは非常な努力だったように思われるが、名作に対しては苦労以上に喜びが勝るものだ、それが名作でありさえすれば。
ShoメンバーはTV版を含めて全てが未見だった。
人類で稀少なサンプルになるはずなので、強く希望して参加してもらった。
さて、ここから先はネタバレになりすぎない程度に書こうと思うが、当然核心を突くような私見が入る。
そのため、シン・エヴァンゲリオン未見の方はお引き返しいただきたい。
観終えたときに去来したのは
この作品のテーマは、碇シンジが大人になる物語である
と言うことだ。
劇中、登場人物たちは口々に碇シンジの成長を認める。
本人もそのことを強く自覚し、その意志の力で行動する。
そして声変わり。
そうだ、あのシーン、あの最後のシーンは
我々旧世代オタクたちはその先へ行くこと罷りならぬと言う絶縁宣言だ。
ネオン・ジェネシスは我々各自の履行によってのみ成し得る。
では、新劇場版において、マリは一体どのような役を演じたか。
四作目、シン・エヴァンゲリオンによって我々観客はそれを垣間見る事ができた。
クリストファー・ノーラン監督のインセプションは筆者のJunの中でもBest 10に入りそうなくらい好きな映画作品である。
インセプションを二、三回観終えて
これは渡辺謙が綾波レイの役を演じているな
と、渡辺謙ヒロイン説という着想を得て満足した事があった。
(シンにおいてはミサトとリツコの関係にワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド様の美しい友情の形を見たのだが、共感できる立場にいないのでその比較に関して述べる事はしない。)
だから単純だ、同じ発想でマリは今作のヒロインとなった碇シンジを救わねばならない。
気分次第で見方を変えれば、単なる人手不足を女手で補っただけ。
これは好意的なエヴァファン、マリファン達ならば簡単に思い至ったことだろう。
良い女、知的でミステリアス、さらに挑発的で胸が大きい。
非の打ち所の無い存在であるからして、新劇場版にシンと冠する上でほとんど最重要人物、ファン達が諸手を挙げて歓迎すべきヒロインと言える。
しかし、筆者のJunは好意的なエヴァファン、マリファンとは言い難い。
4作を通じて振り返ると、Qが一番であるような気がしている。
この記事を読んでいる方、居るとも思えないが、あなたはどうだろうか。
シンを観終えて
分かるエヴァはエヴァとは言えない
という発想が頭から拭い切れない。
エヴァが分かるとは、自分も大人になったものだ。
小学生の頃には解説本なんかを立ち読みしていたのに、今はこのように考察という体で書き記しているのだから。
ともかくQが一番だ。
序も破ももちろん良い、だがQだって一着争いに堂々参戦できる。
Qは特にエンドロールが一番良い、シリーズ最高に良い。
あの90分は桜流しの前座だと信じてやまない。
つまり筆者のJunは悪意あるエヴァファンである。
自分にとって一番の性癖は脚である。
それが拗れて、CAPCOM V.S. SNK2のボスキャラであるルガールが好きになった。
CAPCON側は豪鬼ではなく、やはりベガでもって応戦すべきだったのにと思っている。
ルガールのジェノサイドカッター対ベガのダブルニープレスで脚技頂上決戦が見たい。
そんな中高生の頃から自然発生的に顕現していたのがルガール、ベガなどに対しての初老フェチだ。
つまり筆者のJunは冬月コウゾウファンである。
ヴィレクルーを翻弄し、ゲンドウと共に在り続けたシンの展開、全てを肯定できる。
清川元夢さんが演じ続けることができるかどうかは無視できない問題なので、神殺しの間接的トリガーは冬月であると思っている。
前置きが長くなりすぎた感があるが、そこで本題。
マリである。
渚司令とリョウちゃんを差し置いて、なによりもまずマリである。
ゲンドウ君と冬月先生と呼ぶのだ。
結局、全員関係者だった。
一番遠いのはむしろアスカくらいなものだ。
ゲンドウの回想シーンにも似たシルエットの女性が居た。
アスカが評したコネメガネとは、真希波タイプの初期ロット程度の認識だったので正しいのだろうか。
むしろ本人ではなかろうかとすら思われるが、寿命や老化は?
真希波とはマキナ、つまり機械仕掛けのサイボーグだったのか。
だから歌は懐メロと言うか、我々の世代以上に昔の曲が多かったのか。
そして冬月が放つ「イスカリオテのマリア君」である。
聖書ネタは様々に見立てがなされ、最低限の知識がないと着いていけない物語が多すぎる。
世界一のベストセラーだから、共通の話題として当然と言えば当然だが。
そこでマリアと言えばまず聖母マリアないしサンタマリアその筋、イエスの母を指すものだ。
次にマリアと言えばマグダラのマリア、一説には罪深い女として指されるマリアだ。
冬月が「マグダラのマリア君」と呼んでいれば、視聴者一同驚愕のはずだ。
マリがどのような罪を犯したのか、その一切が語られていないから。
関係者としてゲンドウを対象にした罪だったのではなかろうかとするのが自然だが…。
だが、実際には「イスカリオテのマリア君」と呼ばれたのだった。
イスカリオテのと枕詞が来れば、ユダと引出されるのが通常である。
そして、イスカリオテのユダと言えば裏切り者の代名詞。
真希波・マリ・イラストリアスは作中の裏切り者であったと言うのだろうか。
こうして、マリに対する疑いの目を向ければ気付く事がある。
初見では無理だろう、筆者のJunは三度目で気付いた。
冒頭で、この作品のテーマは碇シンジが大人になる物語だと述べた。
シンの中に、巧妙かつ自然に組み込まれた展開がある。
「好き」と伝える事だ。
この事は、成長ないし老化の過程で上手く気付くか、思い知らされるかして、意識的に実践もしくは決別しなければならない。
仮称アヤナミレイに好きと伝えられて立ち直った碇シンジ。
14年前の感情が好きと言うものだったと、死を覚悟したアスカから伝えられたシンジ。
エヴァの呪縛からアスカを救った際にはシンジの口から、同じ思いを返していた。
ついでと言うかダメ押しで、葛城ミサトの息子に対するシンジの印象も同様だ。
マリだけだ、好きと言わなかったのは。
では、マリは誰を、何を好きなのだろうか。
イスカリオテの裏切り者を理解する核心はここにあるのか。
結論。
宇部新川で新たな生活を始めた碇シンジは、遅かれ早かれ衰弱死するだろう。
世界中の書籍を読み切るという野心を持ったマリ、そんな女が通常の恋愛というか人生ごっこで満足しようはずがないではないか。
もう、信頼された他者を手酷く裏切る事でしか性的興奮が得られないのだ。
だからその快楽のためだけに生きている、あとは読書で十分。
生粋の冬月コウゾウファンの、これは戯言だろうか。
これは真偽未確認の事なのだが、と前置きしてこの先を蛇足する。
様々な感情入り乱れた初回観劇からの帰路、こんな話を聞かされた。
「マリの眼鏡って何だと思う?」
どうせ監督の趣味で、ウルトラセブン辺りから拝借したデザインだろうと、表層的な返事を私はした。
「あれって、ユイさんのメガネをマリが盗んだものなんだって」
「マリはユイが好きなのに、ゲンドウとくっついた嫉妬だって」
「しばらくしたらマリは留学することになって、餞別に貰った」
だから嬉々としてイマジナリーのユイを殺したのだと、そう考えられないことも無い。